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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:3)原発が奪った夫の命 泊・伊方・敦賀…沖縄から出稼ぎ6年余 (2011年8月1日 朝刊)

 沖縄県うるま市。喜友名(きゆな)末子さん(59)は、自宅の台所にある琉球の神棚、ヒヌカン(火の神)に手を合わせた。同い年の亡き夫、正(ただし)さんにこう語りかけた。
 「原発で事故があったよ。病気になる人が出ないか心配」
 原発で働いていた正さんは2005年3月、悪性リンパ腫で急死した。53歳だった。3年後、「原発労働がもとで死亡した」と労災が認められた。
 6年あまりの間に八つの原発や施設で累計99ミリシーベルトの放射線を浴びた。規則で認められる範囲の線量だったが、「悪性リンパ腫を発症しうる量」と放射線の専門家が指摘した。
 「原発が主人を奪った」。今も悔しさがこみ上げてくる。

    *

 正さんは高校卒業後、那覇市の電機販売会社で20年以上、修理の仕事をしていた。週末には末子さんや長男と海に行き、ミーバイ(ハタ)やタコを捕った。夜に夫婦で台所に並んで刺し身や煮付けにした。
 暮らしに変化が訪れたのは94年末、正さんが会社を辞めてからだ。「会社は自分より、給料の低い若手を増やしたがっている」。当時の月給は県平均の2倍の約45万円。居心地の悪さに我慢できなかった。
 「原発で働くことにした」。97年夏、職を転々としていた正さんが夕食時に突然切り出した。大阪の会社の臨時職員として配管を検査する仕事をハローワークで見つけたという。病院で医療事務に就く末子さんは「放射線を浴びると病気になる」と反対した。
 でも、家のローンや長崎の大学に入った長男への仕送りがある。原発作業の稼ぎは多ければ1カ月で40万円。「同じ給料をいま沖縄のどこで得られるんだ」
 耳を貸さず、正さんは沖縄を出ていった。
 泊(北海道)、伊方(愛媛)、敦賀(福井)……。ときに1カ月ほど泊まり込み、原発を転々とした。検査機器を運んだり、データをまとめたり。防護服とマスク姿で配管が張り巡らされた区域にも入った。

    *

 04年3月のことだ。
 沖縄に帰っていた正さんの顔の右半分が突然、殴られたように腫れた。駆け込んだ病院で「鼻に腫瘍(しゅよう)がある」と言われ、緊急手術した。5月に入院した別の病院の医師は、家族を会議室に集めてこう告げた。
 「治療しても助かる確率は50%です」
 正さんの口のあちこちに口内炎ができ、食事もろくに取れない。70キロの体重は47キロに。体力はみるみる衰えた。1年近い闘病生活。酸素マスクが必要となった末期、何かを伝えようと正さんがメモ帳を手に取った。「末子」と書くのがやっと。後が続かなかった。
 30年の2人の生活は数日後、終わりを告げた。

    *

 心に開いた穴は、埋まらない。「前を見て生きよう」とあえて思い出の品を処分した。しかし、頭に浮かんでくる正さんの姿までは、どうしようもない。隣近所から時折、ほかの夫婦の声が風に乗ってくる。奪われた日常は、戻ってこない。(釆沢嘉高)

 ◆キーワード
 <原発労働者の労災認定>
 厚生労働省によると、原発労働者が「被曝(ひばく)により病気になった」と労災認定されたのは1976年以降で10件。うち6件は白血病で、多発性骨髄腫と悪性リンパ腫がそれぞれ2件。累積被曝線量は、最大129.8ミリシーベルト、最少5.2ミリシーベルト。
 国は規則で原発労働者の被曝を平常時で年50ミリシーベルト以下にするよう義務づける。一方、旧労働省は76年、白血病の場合で、年平均5ミリシーベルト以上であれば労災を認めると局長通達で示している。

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