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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:4)臨界事故、風化させぬ 体調不良、工場廃業、夫の死 (2011年8月2日 朝刊)

 原子力施設が密集する茨城県東海村。大泉恵子さん(71)は、雑草に覆われた敷地に立った。平屋の建物に「大泉工業」の色あせた看板が残る。
 まなざしの先に、木に囲まれた大きな工場がある。12年前、国内初の臨界事故が起きた「ジェー・シー・オー(JCO)」だ。
 「あの事故を一生引きずっていかなければいけないのでしょうか」
 現場からわずか120メートル。恵子さんは、自動車部品工場を切り盛りしていた11歳上の夫、昭一さんとともに被曝(ひばく)した。直後から体と心の不調に襲われ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。今も精神安定剤を飲む毎日だ。
 昭一さんは今年2月、82歳で亡くなった。晩年まで、「事故で工場が廃業に追い込まれ、悔しい」と口にしていた。

     *

 昭一さんが自動車会社を辞め、東海村に隣接する日立市の自宅で夫婦だけの工場を始めたのは1979年。7年後、約2700万円の借金をして手にしたのが東海村の工場だった。
 「この調子だったら、70歳まで働けるね」。月末の製品の納期だったあの日、恵子さんは昭一さんや女性従業員3人と朝からはんだ付けに追われていた。
 午後1時半すぎのことだ。消防署員がやって来て「窓を閉めて下さい」と言った。午後4時前、今度は「避難を」と促された。訳が分からなかったが、車で自宅に戻った。何が起きたのかを知ったのは、夕食を食べようとした午後7時のテレビニュースだった。
 大量の放射線を浴びたのでは――。
 国が示した夫妻の推定放射線量は「身体への影響はない」とされる6・5ミリシーベルト。だが、恵子さんはその夜から5日間、ひどい下痢が続いた。それが治まっても、体が鉛のように重い。朝、洗面所に行くとその場でへたり込んだ。工場が近づくと体がこわばり、動悸(どうき)が激しくなった。薬を大量に飲み、死のうとしたこともある。
 歯車が狂っていく。昭一さんも事故から1カ月あまり後、紅皮症(こうひしょう)という全身の皮膚が赤くなる持病が悪化。ともに工場に出勤できない日々が続き、月々数十万円の赤字を出すようになった。昭一さんが入院した01年2月、廃業した。

     *

 夫妻はJCOなどを相手に裁判を起こしたが、昨年5月、「被曝が健康被害を発生させたとは言えない」として敗訴が確定。その直後、昭一さんが81歳で立ち上げたのが「臨界事故を語り継ぐ会」だった。
 各地を講演に回っていた昭一さんは昨年10月、脳梗塞(こうそく)で倒れた。病床で何度も「会を続けてくれるか」と恵子さんに問いかけた。
 「風化すれば再び同じような事故が起こる」。恵子さんは、昭一さんのこの言葉を胸に刻む。
 臨界事故のあと、村では毎年、健康に不安を抱く村民ら250人前後が健康診断を受けている。
 福島では避難を余儀なくされている人がいる。恵子さんはあのころの自分の姿が重なり、やりきれない思いを募らせている。 (江崎憲一)

 ◆キーワード
 <JCO臨界事故>
 1999年9月30日、茨城県東海村のウラン加工工場「JCO」東海事業所で、制限量を大幅に超えるウラン溶液が投入され、核分裂が連鎖して続く「臨界」が起きた。作業員2人が急性放射線障害で死亡し、周辺住民ら667人が被曝した。県は半径10キロ圏の住民に屋内退避要請を出した。事故の重大さは国際評価尺度で当時、国内最悪の「レベル4」だった。

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