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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:5)第二の故郷よ、認めて 15歳の夏、父を捜して長崎で被爆 (2011年8月3日 朝刊)

 今年7月12日、長崎市。強い日差しが照りつける。
 韓国昌原市鎮海区の画家、張令俊(チャンヨンジュン)さん(81)は、15歳のころに父を捜して歩いた道をたどった。
 1945年8月9日、爆心地の北約30キロの長崎県川棚町にいた。一緒だった母や弟妹は無事だが、長崎市で土木業を営む父の安否がわからない。3日後、一人で列車に乗り込み、市内を目指した――。
 父の無事を確認した、その記憶をたどるように進む。爆心地付近の浦上からJR長崎駅前、路面電車の走る沿道を過ぎ南東へ。目的地は本河内の水源池だ。
 到着するや、張さんが声を上げた。「あの雑木林です。そばに父の飯場があったんです」
 張さんは長崎市に被爆者健康手帳を何度も申請したが、「被爆を証明するものがない」と退けられた。
 「これほどはっきり覚えているのに、なぜ被爆者として認められないのか」
 涙がこぼれた。

    *

 あの夏、日本は戦争に敗れ、一家は3カ月後、解放された祖国に戻った。だが、朝鮮半島はまもなく南北に分断され、50年には朝鮮戦争が始まった。
 体に変調を覚えたのは、戦争のさなかだった。
 当時、陸軍兵長として韓国南部・釜山の基地で後方支援をしていた。急に鼻血や歯茎からの出血が目立ち始めた。下痢が続き、熱が出るようになった。
 「栄養不足か過労だろうか」。原因がわからないまま、満足な薬もなく、我慢するしかなかった。
 30代半ば。日本の雑誌で被爆者の記事を目にし、疑問が膨らんでゆく。
 「おかしな体調が続くのは、原爆投下後の長崎市に入ったことが原因では」
 しかし、原爆被害のことは周囲で理解されてはいない。父親が被爆者だとわかると、息子や娘がいわれない差別を受けるのでは。
 口を閉ざした。

    *

 被爆者手帳を取るために最初の申請をしたのは、90年代前半だった。
 そのころ、韓国原爆被害者協会の活動を知った。被爆者同士が助け合い、日本政府に補償を求めていた。
 会員になり、韓国で被爆者と認められ、韓国政府から診療補助費が支給されるようになった。だが、現在でも月10万ウォン(約7500円)に過ぎない。
 「手帳をもらい、日本できちんとした治療を受けたい」と願ってきた。
 数年前、張さんは「白血球減少症」と診断された。耐えかねて今年5月、長崎市を相手に、手帳を求める裁判を起こした。
 7月、長崎地裁の法廷で裁判官に直接訴えた。
 「病状は刻一刻、悪化していっております。この先、自分の体がどうなるのか、毎日不安を抱えて生きております」
 日本で生まれ、教育を受けた、滑らかな日本語。
 「私の半分は日本人。第二の故郷と思っていたのに」。憤りより、寂しさがこみあげてきた。
 協会によると、会員の被爆者約2650人のうち約140人が、「証人がいない」「証明するものがない」との理由で手帳を持てないでいる。 (佐々木亮)

 ◆キーワード
 <在外被爆者>
 厚生労働省によると、2011年3月現在、海外で暮らして被爆者健康手帳を持つ人は37カ国・地域で約4450人で、約3050人が韓国在住者。海外から申請ができるようになるなど一定の改善もみられるが、政府の援護から長い間置き去りにされてきた。国内では被爆者援護法に基づいて医療費を国が全負担するのに対し、国外在住者には適用されず、医療費助成に年間十数万円の上限があるなど格差は少なくない。

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