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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:6)ヒバク、地球の裏にも 広島出身、単身移住…待っていたのは (2011年8月4日 朝刊)

 赤土の高原が広がるブラジル内陸の地方都市、ゴイアニア。中心部から西約30キロの丘陵に、有刺鉄線で囲まれた場所がある。
 「ここは人類の英知が造った墓場ですよ」。7月半ば、約900キロ南のサンパウロから訪れた盆子原(ぼんこはら)国彦さん(71)が言った。
 24年前に249人が被曝(ひばく)し、死者も出たセシウム137流出事故。地下10メートルでは汚染された住民の服やアルバム、家のがれきが放射線を出し続けている。
 「あれは青く光ってきれいだった。親戚が集まり、みんなで触っていたの」
 25歳の息子をがんで亡くしたアレッシー・バス・ボージェスさん(73)に、盆子原さんが語りかけた。
 「私もヒバクシャです。母と姉をヒロシマで失いました」
 時折この地を訪れ、被害者と語り合う。

    *

 1945年8月6日、広島。
 5歳のあの朝、建設現場の監督だった父と自宅近くの事務所にいた。窓が突然ピカッと光り、父に机の下に押し込まれた。爆心の南2キロ。爆風でガラスを浴びて血まみれになり、近くの川で父と洗った。
 自宅は倒壊していた。大粒の黒い雨がぼたぼた落ちてきた。勤労奉仕に出かけていた母と姉を捜したが、ついに見つからなかった。
 戦後、郊外の農家の納屋を借りて父や兄ら家族4人で住んだ。たびたび全身に10円玉大のできものができ、緑色のウミが出てなかなか治らなかった。小学4年のときに肺病を患った。
 「そんなに長いこと生きられん。生きてる間に何でも見てやろう」
 高校卒業後の1960年12月、海外移住事業の一員として神戸港から単身ブラジルに渡った。30代半ばで始めた測量会社が軌道に乗った。めまいをよく起こして倒れていた体も次第によくなった。
 日本からの巡回医師団の健康診断を初めて受けた88年のことだ。全土から集まった100人ほどの被爆者が口々に言った。
 「仕事がしたいのに体が動かない」「被爆者だと知れて、息子の縁談が破談になった」。みんなまだ苦しんでいる――。
 ブラジル被爆者平和協会に加わった。
 いま、副会長として会長の森田隆さん(87)と学校で被爆体験を語っている。川に浮いていた無数の遺体。電車の中で黒こげになった大人や子ども。「核は絶対に許せない」という思いを込め、あの日の惨状を伝える。

    *

 3月12日、平和協会の事務所はブラジルの放送局や新聞の取材でごった返した。「安全最優先の日本の原発でなぜ事故が」と尋ねる記者たちに訴えた。
 「やはり核と人類は共存できない。私たちはずっと訴えてきた」
 1カ月ほど後、同様の日本語のメッセージを動画投稿サイト「ユーチューブ」にも流した。ポルトガル語、スペイン語、フランス語で字幕をつけた。
 広島、ゴイアニア、そして福島。
 「放射線の被害はどれも同じだ」と1人でも2人でも多く伝えたい。核に苦しむ人がこれ以上生まれないように。 (工藤隆治)

 ◆キーワード
 <世界の核被害>
 ブラジル・ゴイアニアでは1987年、がん治療病院跡から放射線治療装置が盗み出され、買ったくず鉄業者が解体。光るセシウムの粉を近所や親類に配った。同年だけで6歳の少女ら4人が死亡したという。
 米スリーマイル島(79年)や旧ソ連チェルノブイリ(86年)の原発事故のほか各地で核被害は相次いでおり、ビキニ事件など2千回以上の核実験で多くの住民や兵士が被曝した。ウラン採掘時の健康被害も問題になっている。
 軍事施設では、57年に旧ソ連チェリャビンスクと英ウィンズケールの核施設が爆発や火災を起こした。原子力潜水艦で兵士らが被曝、死亡する事故も発生している。

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