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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:7)反核の種、詩で広める 被爆国なのに空も海も汚してしまった (2011年8月5日 朝刊)

 東京・町田に暮らす、詩人の橋爪文(ぶん)さん(80)は3月16日午後、西へ向かう新幹線に飛び乗った。
 福島第一原発1号機が水素爆発を起こして、5日目のことだ。自宅にいても、落ち着かない。午後9時、広島駅のホームに降りた。
 翌朝、平和記念公園へ向かった。原爆供養塔の前にいた。
 「被爆国なのに、空も海も大地も、放射能で汚してしまった」
 あの広島に立ち、福島を考えたかった。
 「半年の命でしょう」

     *

 42歳のとき、医師に宣告された。
 広島で被爆したときのことが思い浮かんだ。
 爆心地から約1・6キロ。14歳だった。学徒動員されていた貯金支局のビルの窓際にいたら、爆風で全身にガラスを浴びた。
 死の街をさまよい、家族と再会できたのは翌日。7歳の弟は背中に大やけどを負い、亡くなった。
 両親と妹ら家族5人のバラック暮らし。すぐに下痢が始まり、数年続く。鼻や歯ぐきからの出血、脱毛、高い熱。白血球は減少し、体はいつもだるかった。
 30歳で結婚。家庭を築いたが、「原因不明」の病気に苦しめられてきた。
 だから、死をそのまま受けとめようと思った。
 9歳、6歳、3歳。3人の息子の顔が浮かぶ。彼らのために詩を書き始めた。
 医師の予測は外れ、10年後、詩の題材は原爆へと移っていった。
 ひとつの詩を作った。
 《もし あなたが生きのびることができたなら/母に伝えてください/ぼくが ここで死んだことも》
 黒こげの死体やおなかが破裂した子どもたち。人間らしく死ぬことができなかった人たち。あの日を思い出すことが怖く、原爆に触れられなかった心が少し、軽くなった。被爆から30年以上たっていた。

     *

 それからの人生、原爆の詩をこつこつ書いた。心の重荷が下りていく感覚。出版した詩集は、4冊。被爆体験も本にした。
 還暦を迎え、戦争中にろくに学べなかった英語の教室に通い出す。英スコットランドに留学した。
 「出身は広島です」と自己紹介すると、原爆の話を聞かれる。けれど言葉が壁になり、うまく話せない。友人が英訳してくれていた詩を渡すと、伝わった。
 《一瞬 炭素と化した少年は/焦土に大の字に横たわり/空洞の眼を大きく見開いて/天を睨(にら)んだ》
 生き残った自分にできることが、見つかった。
 「平和の種、反核の種をまこう」。原爆詩と自らの被爆の体験を英訳してもらい、リュックに100冊を放り込む。ひとりで世界を回る旅が始まった。訪れた国は15カ国を超えた。

     *

 原発事故のあと広島には40日間いた。街を歩き、友人と語らい、原爆のこと、原発のことを考えた。そして、ペンをとった。
 「広島から 日本のみなさん、世界のみなさんへ」
 《自然と調和して生きていく道を拓(ひら)くのが、人間の英知ではないでしょうか》 (高木智子)  =おわり

 ◆キーワード
 <被爆者の健康被害>
 熱線や爆風によるやけどや外傷のほか、大量に放出された放射線による障害がもたらされた。急性症状は吐き気や下痢、脱毛、血便、発熱、皮膚の斑点、白血球の減少など。のちに白血病や甲状腺、乳、肺などのがんになる確率も高まる。
 原爆投下後に爆心地近くに入った人らも健康被害を訴えており、ほこりや食べ物で放射性物質を体に取り込む内部被曝(ひばく)の影響が疑われている。

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