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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜いま、市民社会から何を問いかけるか」2 (2011年8月6日 朝刊)

 ●非人道行為規制、働きかけ 日本が国際的に主導を
 三浦 国際的な核軍縮はどこまで進んだのか。
 パーコビッチ オバマ米大統領は2009年、プラハでの演説で「核なき世界」を旗印とし、リーダーシップを示そうと努力してきたが、抵抗は大きい。米国内でもその他の大国でも、この目的に協力しない動きがあった。
 また世界中で高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁じる兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)も、約20年前から導入されようとしているが、まだきちんとした交渉が始まっていない。
 ラフ (核廃絶は)依然として非常に小さな、断片的なステップにとどまっている。ただ、対人地雷全面禁止条約=キーワード=やクラスター爆弾禁止条約の実現は心強い例だ。市民社会が国際機関と協力し、また確固たる決意を持ついくつかの政府が結束することで、軍事・戦略的な議論から、兵器を使ったらどうなるのかという人道的なディベートへと変えていった。まさにこうした議論が核兵器にも必要だ。
 水本 核兵器の完全な廃絶に最後まで抵抗するのは米国だろう。最初に核兵器を使った経験は、大いにたたえるべきだという考えの人が今でも米国には多くいる。日本が始めた戦争だから原爆を使ったんだと語られているが、そこは違う問題だから分けて議論しないといけない。
 戦争を終わらせる手段はこれしかなかったとの主張に対し、非人道的なものだときちんと伝えない限り、米国は同意しないだろう。
 目加田 カットオフ条約の話し合いは、これまで具体的な成果がない。反対する国は入らなくてよいので、できる国からやれないのか。日本が進めようと言って、世界の中でイニシアチブをとることが大事だ。対人地雷などと同様、核兵器も急になくなることはない。やれることからやろうと、市民も政府に対して働きかけねばならない。

 ●政府動かす「うるさい市民」に
 三浦 市民社会は核廃絶のため何をすべきか。
 ラフ 各国の政府に対し、核兵器禁止条約の交渉を始めるよう働きかけることが必要。どんな条約であるべきかだけでなく、カギとなるものは何か、過去に成功した条約にはどんなものがあり、それがどのように核兵器に適用できるのかを見極めるよう、我々が政府に圧力をかけなければならない。そこに市民社会の役割が出てくる。金融機関に、核兵器の製造に関わっている会社への投資を引き揚げるよう、圧力をかけることも必要だ。
 三浦 米国と豪州での市民運動の状況は。
 パーコビッチ 米国の市民運動には変動がある。オバマ氏のような人が現れ、核兵器を廃絶し、指導力を発揮すると呼びかける。市民社会でもこうした問題に努力していこうと思う人がいる。私もその一人だ。市民社会がチャレンジしなければならない。
 ラフ 豪州でも積極的な平和運動がある。世論調査では国民の80%以上が核軍縮を優先すべき大きな課題と考えているが、実行は難しい。最近、豪州では、かつての政治的リーダーたちが大きな声で「核のない世界」を掲げており、希望が持てる。
 三浦 若い世代にメッセージをお願いしたい。
 水本 市民社会で大事なのは国境を超えること。悲惨な体験を他国で語ると、途端に自分たちの体験に縛られる。場合によっては敵味方の関係になり、共有できなくなる。ナショナリズムの問題にせず、悲惨な体験を勉強し合うこと、原爆と同時に戦争、植民地支配、歴史の問題も国境を超えて学ぶ必要がある。
 目加田 市民社会は数が集まればそれなりの力になる。非人道的兵器を製造している企業にメガバンクが投資していたが、市民がやめるように働きかけ、(金融機関側が)クラスター爆弾製造に関わらない方針を打ち出した。
 うるさい市民になるのが大事。嫌だとか疑問に思うことには、地元の議員やメディアを通じて声を上げる。今年を核軍縮に向けた原点とし、どんなメッセージを世界に発信していくかを考え、行動に移していかなければならない。

 ◆キーワード
 <対人地雷全面禁止条約>
 1997年12月にカナダのオタワで調印され、99年3月に発効。締約国は今年8月時点で156カ国で、3大地雷輸出国の米中ロは参加していない。大国が渋っても、NGOと有志国が条約づくりを主導する「オタワ・プロセス」と呼ばれる手法で実現した。中心となったNGOの連合体「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」はノーベル平和賞を受賞。08年12月に調印されたクラスター爆弾禁止条約も、こうした手法で成立にこぎつけた。

 ◇オノ・ヨーコさん「周囲に愛を表そう」
 私は日本人であることを誇りに思っています。いろいろな国で災害は起きているが、日本人の態度は違う。他の人のせいにするのではなくて、黙って一生懸命復興に携わっている。
 広島の人たちは、私たちに希望への道をつくってくれた。だから私たちは歩かなきゃいけない。「犠牲者だったことを覚えておいてくれ」というのは、ノーモア・ヒロシマのメッセージではない。「あなたたちをノーモア・ヒロシマにしてあげたい」という、世界へのメッセージなんです。
 もう広島の方たちは犠牲者じゃない。焼け野原からここまでできたという創造的で、非常に力強い、選ばれた人々だ。そして3・11があった。また、私たちはやらなくちゃいけない。
 世界を変えてやるという気持ちではなく、身の回りのささいなことから始めよう。1日に三つぐらい、愛を表すことをしてください。そうすると3カ月ぐらいで、あなたの世界が変わる。それでみんなが変われば、世界も変わる。平和になる。大きな力を世界に分けてあげてください。
 日本ができたんだから、自分たちもできると世界の人々が思えば、きっとよくなる。だから一歩一歩、進んでいきましょう。

     *

 前衛芸術家。1960年代後半から、夫である元ビートルズの故ジョン・レノン氏とともに平和運動を展開。今年、広島市が平和に貢献した現代美術作家に贈るヒロシマ賞を受賞した。

 ◎1651人の重いメッセージ 被爆証言サイト紹介
 パネル討論に先立ち、朝日新聞社が運営する被爆証言サイト「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」が紹介された。手記がサイトに収められている2人の被爆者が招かれ、近況を写したビデオの上映や、手記の朗読があった。
 サイトの紹介の後、登壇した澤田一瑩さん(75)=東京都大田区=は「一人でも多くの人に核兵器の怖さを訴えたい」と話した。
 爆心地から1・8キロの自宅で被爆。3歳だった妹は9月に、母は11月に亡くなった。祖父母、父、弟もがんで死亡。原爆の影響だと考えずにはいられない。「思いを大勢の人に知ってもらうことで、祖父母、両親らの無念を晴らせるのでは」と言う。
 高校2年生の孫娘が「平和に貢献する仕事がしたい」と、語学を学ぶため来月渡米する。明るい表情で「応援したい」と語った沢田さんは、聴衆に向かって「大きな犠牲を払って成し得た平和を、大切にしてほしい」と呼びかけた。
 「66年前の、あの怖い怖い日が胸に迫ってくる」。壇上で前田サトミさん(80)=広島県安芸太田町=は、涙で声を詰まらせた。誰かが「太陽が落ちた」と叫んだ。気を失い、額には長さ15センチの傷を負って、皮膚が垂れ下がった。年ごろになると、父に「お前は嫁にいけん」と言われたという。額に傷があり、もらい手などないというのだ。
 米国に腹が立ってならなかったが、父の言葉は結局違っていたし、米国を憎む気持ちもなくなった。今は核兵器がいかに恐ろしい兵器かをわかってほしい。
 「私たちはくじけてはならない。与えられた命を大切に、たくましく生きることが大切だ」と訴えた。

 ○英語ページも開設予定
 朝日新聞社が運営する被爆証言サイト「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」(http://www.asahi.com/hibakusha/)は、昨年11月に開設。1651人の被爆者のメッセージ(手記)を収録している。被爆者の体験や平和への思いを世界へ発信するため、一部の手記を英訳した英語ページを近く設ける予定だ。英訳には、世界中で350人以上の人たちがボランティアとして協力している。

 ◆飽食の時代、妹思うと胸痛む     澤田一瑩(かずえ)さん
 1945年8月6日。当時9歳だった私は肋膜(ろくまく)炎を患って床に伏していた。「ピカッ」。午前8時15分、突然閃光(せんこう)が走り、「アツーイ」という弟の声とともに「ドーン」と大音響、あたりは真っ暗。薄明るくなった時、父は5歳の弟を抱いて、砕けて庭に飛び散った屋根瓦の上を裸足で通って、下駄(げた)箱から履物をさがした。父の頭からは血が噴き出ていた。
 3歳だった妹は、爆心地近くの伯母の家で被爆。砕けた家屋の下敷きになった伯父に、火がせまっているので早く逃げるようにと急がされた。伯母と一緒に1週間後、裸同然で帰りはしたものの、頭髪は握っただけそっくり抜け、?には穴があき、その穴から半分に千切れた舌が見えた。食べるものは炒(い)った固い大豆だけ。1カ月後、伯母の後を追うように亡くなった。この食物の豊かな時代、妹のことを思うと胸が痛む。

 ◆黒こげの姿、まさに生き地獄     前田サトミさん
 観音町の三菱機械工場で被爆した。建物の下敷きになり、額に15センチほどの裂傷を負った。工場の防空壕(ごう)で過ごし、3日目にようやく姉がたずねて来てくれた。姉と2人で横川の我が家に向かって歩いた。靴はどこへやら、はだしのままでアスファルトの上を歩いた。
 一面焼け野が原になった市街地は、るいるいと瓦礫(がれき)の山。燃え尽きてしまった家の跡のあちこちから煙がくすぶり続け、無残にも変わり果ててしまった広島の町。3日目の午後になっても道路の両側には数え切れないほど、多くの人々が呻(うめ)き苦しみ倒れ伏している。死んでいる人々の中、今にも息絶えそうにうごめいている人が見えた。よほど熱かったのだろう、防火用水槽に頭を突っ込み団子のように折り重なって焼け焦げている。焼け焦げた電車の中の乗客が座席に座ったまま黒こげの姿。これが本当の生き地獄なのだ。

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