english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
ヒバク絶つ誓い 「放射能の恐怖ない世界へ」 長崎・原爆の日 (2011年8月9日 夕刊)

 66年前に原爆で壊滅した長崎。放射線の被害に苦しめられてきた被爆者たちは、福島の原発事故に自らの体験を重ね合わせ「二度とヒバクシャを出さない」と改めて誓った。▼1面参照

 ●被爆者代表
 「死んだ人たちの声として聞いてほしい」
 被爆者代表の松尾久夫さん(83)=長崎市=は、語ることのかなわない死者の声を代弁する思いで「平和への誓い」に臨んだ。
 「昭和20年8月9日、私は17歳でした」。爆心地から1・2キロの三菱兵器大橋工場で被爆した。同僚と雑談をしていた時、突然閃光(せんこう)が走り、爆風に押されて地面にたたきつけられた。工場の屋根は吹き飛び、周囲の建物はすべてなぎ倒された。
 その日の朝、「畑に行く」と言っていた母は、ついに見つからなかった。2番目の弟は側頭部に穴が開いて死んでいた。姉は防空壕(ごう)で冷たくなっていたのを火葬した。すぐ下の弟とおいも見つけられないまま、親族5人を失った。
 「無防備の、幾万の市民の尊い命を無差別に奪い去り、人道的に赦(ゆる)される行為ではありません」
 誓いでは、福島の原発事故にも触れた。
 「多くの人が放射能の恐怖にさらされています」
 爆弾としてまき散らされるものも、事故で漏れてくるものも、放射線には違いない。安易に「脱原発」と言うのははばかられたが、電力の安定供給が原子力以外でできるのなら、原発のない世界を望みたいというのが被爆者としての本音だ。
 私の残りの人生を核兵器と戦争のない世界の実現、そして、放射能に脅かされない平和な世界の実現に尽くす――。式典で、そう誓った。(遠藤雄司)

 ◆原発言及の宣言に拍手
 ●被災した中3
 式典には、福島県いわき市から招かれた中学生43人の姿があった。校区の大半が東京電力福島第一原発の30キロ圏内にある同市立久之浜中の3年生、遠藤涼香さん(14)は「同じ放射線で苦しみながら復興した、その道のりを知りたい」と、やって来た。ずっと正面を見据え、平和宣言に聴き入った。
 3月11日、母親と乗った車ごと津波にのまれ、車の屋根の上で救助を待った。東日本の被災地復興に思いを込めた平和宣言に「長崎からのエールだと思った」。福島への呼びかけ、原発への言及が心に響いた。
 福島第一原発事故から1週間ほどは、不安でマスクが手放せなかった。現在、学校は直線で16キロ離れたほかの中学校を間借りして授業を続けている。
 「当たり前だと思っていた生活が大切だと知った」
 長崎訪問が決まり、原爆のことを勉強し直した。4泊5日の滞在中は地元中学生らと交流。被爆者に体験を聞き、大学の研究者から放射線のことも学ぶ。「私は奇跡的に助かった。生き残った命を大切にしたい」。福島の現状も知ってもらいたい。前向きに生きていきたい。この日、平和祈念像の前で思った。(江崎憲一)

 ●被爆2世教師
 全国の遺族代表として献花した福島県いわき市の小学校教諭馬場義郎さん(54)は平和宣言を聞き、「広島の(平和宣言で)言えなかった、原発に頼らないというメッセージがうれしかった」と大きな拍手を送った。
 被爆2世。しかし、長らく意識してこなかった。81歳で亡くなった母フサ子さんは、長崎県諫早市で負傷者の救護中に被爆した。多くを語らぬまま母は逝った。
 21年前、妻の典枝さん(56)の実家がある福島県へ。平和利用としての原発の廃絶は本格的に考えてこなかった。ただ、故郷を襲った原爆の被害に触れるにつれ、放射線への漠とした不安が生まれた。「原発の電気に頼りたくない」。3年前、屋根にソーラーパネルを取り付け、車も電気自動車に乗り換えた。
 3月11日以来、生活は一変。勤め先の小学校は東京電力福島第一原発から約45キロの距離。窓を開けず屋内で体育の授業を続けた。児童30人が転校した。
 放射線被害という共通点でつながることになった長崎と福島。故郷の被爆地・長崎で、馬場さんは「自分たちの生活の根本を問い直し、原発に頼らない生き方を選びたい」との思いを新たにした。(渡辺洋介)

 ◇犠牲者、悼んで
 長崎市本尾町の浦上天主堂では9日午前6時から、犠牲者を追悼するミサがあった=写真、福岡亜純撮影。原爆投下地点から約500メートルの距離。建物の大半が崩壊し、14年後に再建された天主堂で信徒約300人が平和への祈りを捧げた。
 小島栄主任司祭は「原爆で亡くなった人と、特に今年は東日本大震災の犠牲者のために祈りましょう」と語りかけた。ミサに訪れた信徒の一人、同市の森田京子さん(76)は「原爆で亡くなった夫の家族や、ほかの人々の分まで祈りたい」と話した。

《2011年の夏》 記事一覧