【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:1
(2012年7月31日 朝刊)
数十年ぶりに原爆ドームを訪れた名越由樹さん。なかなか足が向かないという=広島市中区、小玉重隆撮影
弟はヒロシマの子、自分は
7歳で亡くなった弟が絵本になった名越さん
8月6日の原爆の日に、特別なことを何もしない。平和記念資料館は、見学したことがない。
弟よ、兄ちゃんはもうちぃとちゃんとせにゃあ、いけんのんじゃろうか。
広島で生まれ育った名越由樹(なごやよしき)さん(56)は、自問を繰り返す。絵本にも朗読劇にもなった弟よ――。
1968年2月、弟の名越史樹(ふみき)ちゃんは、白血病で亡くなった。7歳だった。5カ月後、その短い人生は、「ぼく生きたかった 被爆二世史樹ちゃんの死」という題の本として出版された。
自分を責め続けた母と、回復を願い続けた父。その悲しみと怒りに満ちた言葉を収めた本は、原爆の惨(むご)さと、世代を超える放射線への不安を知らしめた。
「世界中のお医者さま 私の子供の白血病をなおして下さい でも アメリカはいや(中略)平和づらしたその汚れた手で 私の子供に触るな」(母の日記)
「昨日まで確かに史樹は、生きていた。そして、確かに、私と妻の子であった。しかし今は、もう、ヒロシマの子であり、みんなの子供であった」(父の日記)
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母操さんは15歳の夏、爆心地から2・3キロの自宅で被爆した。妹は、勤労奉仕先から帰ってこなかった。下痢が続き、歯茎からは出血。顔の傷が癒えた頃、謙蔵さんと出会い、結婚。被爆10年後に由樹さんを、その5年後に史樹さんを生んだ。
――それが、本にも記された両親の歩みだ。肝臓を患いながら、母は核兵器廃絶運動に奔走した。
由樹さんは当時小学6年。弟の死が理解できなかった。大学生になって、父の書斎で弟の本を手に取った。3分の1ほど読んで閉じた。涙があふれ先に進めなかった。原爆は、後から追いかけてくるようだった。
3人の子の父になった。子どもが熱を出すたび弟が頭をよぎった。1986年、操さんは56歳で死去。謙蔵さんも2004年に75歳で亡くなった。
あとには、名越家の物語だけが残った。
23歳の長女が幼い頃、操さんの名前を記した本のことを尋ねてきた。「これ、おばあちゃん?」。「そうだよ」とだけ言った。3人の子には、弟の存在は伝えているが、細かく話していない。体験がない自分に、何が伝えられるのだろうかという思いもある。
母と同じ歳になった。そして、この夏、初孫ができる。長女の出産予定は、原爆の日直前。日々大きくなるおなかを見つめると、顔がほころぶ。
福島の原発事故で、放射線被害が過去の話でなくなった。「史樹と同じ血が流れとるんじゃけえ、やらにゃあいけんことがある気がする」。最近、そう考えるようになった。
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戦争や原爆のことをもっと知りたい。なのに広島で育った私の親はなぜ、「被爆2世」として祖父母の体験を語ってくれないのか。
被爆した祖父母を持ち、広島の外で育った記者の私は長く、わだかまりのようなものを抱いてきた。由樹さんの思いの一端に触れ、何かが見えてきた。語り継ぐ役割を「被爆2世」にばかり求めれば求めるほど、彼らは口を閉ざすのではないか――。
被爆者やその家族かどうかは、関係ない。被爆体験はないけれど、二度と被爆者をつくらないと願う私たち一人ひとりが、「ヒロシマの子」なのだと思う。
(宮崎園子、35歳)
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核廃絶を願い、被爆体験を語り継ぐとき、それを困難にする「壁」がある。原爆投下から67年目の夏。20〜30代の記者7人が、壁の向こうに思いをはせ、目の前の現実と向き合った。