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紙面から from Asahi Shimbun

【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:2  (2012年8月1日 朝刊)

写真 「被団協が一つなら、もっと力が出せたと感じた」と金子さん=広島市安芸区、いずれも小玉重隆撮影 写真 「金子との思い出は、お互いこういう立場になる前からたくさんある」と語る坪井さん=広島市中区

最初は一つじゃった。けれど
   冷戦のあおりで分裂した被団協の理事長2人

 広島には、同じ名前の被爆者団体が二つある。
 「広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)」
 理事長は坪井直(すなお)さん(87)と金子一士(かずし)さん(86)で、「坪井被団協」「金子被団協」と呼ばれる。小学校の修学旅行で訪れた時、「被爆者の心は一つ」と教えられたのに、なぜか。そんな思いで取材を始めた。

    ■    ■

 「最初は一つじゃった」。坪井さんは言う。
 県被団協は1956年に結成。63年、旧ソ連の核実験への姿勢などをめぐり社会党と共産党が対立。原水禁運動が分裂、あおりで県被団協も64年、旧社会党・総評系(坪井被団協)、共産党系(金子被団協)に分かれた。
 分裂当時、坪井さんは39歳。広島市内の中学校で数学を教えていた。「政党間のことには興味が無かった」。教師の道は「肉体労働は無理だと思ったから」と打ち明けた。広島工専学生時の20歳で被爆し、入院や検査を繰り返していた。
 平和教育に積極的になったのは70年代からだ。
 金子さんも元中学校教員。分裂当時は組合活動に奔走。分裂の真相を尋ねたが、「分からない」。平和教育への関わりは、国鉄の海田市駅できのこ雲を目撃し、爆心地付近を訪れ、入市被爆した体験が大きかった。
 親交を深めることになったのは、70年代後半。平和教育の研修会で意気投合した。坪井さんは会の平和教育部会長で、金子さんは中学校長。月2回の会議の後には必ず食事に行った。
 86年の退職の記念に一緒に中国を旅した。「同い年で同じ職業という以上に仲が良かった」と金子さん。

    ■    ■

 ところが、二人は違う道を歩き始める。
 先輩の勧誘で、各組織の事務局次長に。93年に金子さんが、2004年には坪井さんがトップに就いた。
 二人は互いの総会に足を運んであいさつしたが、内部から批判を浴びた。「土下座させるまで交流するな」。政党間の対立がオリのように残っていた。県内の被爆者の大半は、両方の組織から距離を置く。
 94年の被爆者援護法の制定。原爆症の認定基準のあり方を問うた2000年代の集団訴訟の勝訴。対立しながらも両被団協は被爆者の声を社会に届けてきた。
 「なぜ子どものケンカみたいなことを、と思い続けた」。金子さんは吐露した。「今、私は老いを強く感じている」とも。
 どうして一つになれないのか、私は坪井さんに疑問をぶつけた。「もう、あと何年もこの世におらんけぇ、やれることだけを一緒にしようと思うとる」
 冷戦終結から20年以上が経ち、社共の対立は歴史の一コマに。政党の論理で分裂したままの組織は、私の目には滑稽にすら映る。それでも、90歳近い2人は運動を引っ張り続ける。取材で垣間見えたのは強い自負心とともに寂しさだった。
 二人もほかの被爆者もいずれいなくなる。坪井さんが言った。「その時は、被団協の名前も残らんかもしれん。ただ、わしらの平和にかけた思いだけは残し、継いでいってほしい」
 一番怖いのは被爆者なき後の無関心だ。何を記憶し、伝えていくのか、残される世代が問われている。
 (後藤洋平、36歳)

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