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紙面から from Asahi Shimbun

【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:3  (2012年8月2日 朝刊)

写真 かつて働いた嘉手納基地前のコザゲート通りを歩く雛さん=7月25日、沖縄県沖縄市、木村司撮影

叫びが届かない基地の島
   広島で育ち米軍基地で働いた女性

 沖縄本島中部、広大な米軍嘉手納基地のそばで雛(ひな)世志子さん(80)は暮らす。広島で被爆し、沖縄に来て62年になる。
 7月25日、雛さんは地元の北谷町で中高生らに体験を語った。大阪で生まれ7歳で広島に引っ越したこと。13歳のとき働かされていた町工場で原爆に遭ったこと。中学校で何人もの数え切れない死をみとったこと。それから、続けた。
 「原爆、都市空襲、沖縄戦、病気や飢えで死んだ人も数知れない。戦争の、ありのままを知ってほしい」
 約1時間、話し終えた彼女の表情は浮かなかった。
 本土に復帰して40年。不安や怒りが渦巻くのに、何事もなかったかのように迫る米軍の新型機オスプレイ。解決の兆しさえ見えない普天間飛行場の問題――。大きすぎる現実を前に、自分が語り続ける意味がわからなくなるという。

    ■    ■

 被爆後、雛さんは父の故郷・奄美に帰ったが、46歳で父は急逝。働き手を失い、同じ米軍統治下にあった沖縄へ渡った。紹介された職場は米軍基地だった。
 1952年、長女を産んだ。父親は、職場で出会った米兵。本国へ帰還したまま音信は途絶え、一人で娘を育てた。嘉手納基地の将校宅のハウスメードや、米兵向けバーの店員。昼も夜もなく働いた。
 69年、日米の首脳は沖縄を「核抜き、本土並み」で日本へ復帰させることで合意。沖縄は72年に返還された。その数年後、結婚しようとする娘に言われた。
 「結婚できなくなるから、原爆のことは隠して」
 広島の親戚の勧めもあり、被爆者健康手帳を手にしたのは83年。被爆から38年が過ぎていた。
 この年、母をがんで亡くした。若くして逝った父は白血病だった、と後で知る。自身も5年ほど前、子宮がんを患った。みんな、あの日の広島にいた。「いつなんどき体の中の爆弾が爆発するかわからない」
 見えない恐怖と隣り合う日々。雛さんはかつて原爆を落とした米国が憎かった。しかし今、本土が腹立たしくて仕方がない。
 本土で原水爆禁止運動が高まる50年代半ば、沖縄は米軍の占領下。実際に核兵器が配備されていた。基地は朝鮮戦争やベトナム戦争に使われ、米兵の犯罪も繰り返された。集団強姦(ごうかん)されたバーの同僚もいた。
 米軍統治の時代、沖縄の被爆者は長く、国の援護の対象から外された。
 沖縄を切り捨てる構図はずっと変わらない。オスプレイの配備を強いるのは、普天間の危険をそのままにしているのは、だれだろうか。ほかでもない日本本土だ、と雛さんは言った。

    ■    ■

 記者は昨春まで約3年間、沖縄で仕事をした。初任地は長崎だった。沖縄に来て気づいたのは、平和の島とも呼ばれる地で、8月6日も、9日も特別な日ではないことだった。ずっと気になっていた。
 「いろんなことがありすぎてこの島では、被爆者の叫びが届かない」
 雛さんの言葉が重く響いた。被爆と向き合う機会も奪ってしまう、沖縄の現実に改めて思いを巡らせた。
 核廃絶を訴えながら、米国の核の傘の下にある。日米安保のために、沖縄だけに重荷を背負わせつづける。小さな南の島に、被爆国・日本の矛盾が押し込められている。
 (木村司、35歳)

 ◆キーワード
 <沖縄の被爆者> 57年施行の旧原爆医療法で被爆者健康手帳の交付が始まったが、沖縄は当初適用されなかった。沖縄の被爆者が明らかになったのは63年、石垣島の女性が名乗り出たことがきっかけ。67年、手帳交付が始まった。この頃までに30人余りが「難病」とされて、亡くなったという。2012年7月時点の手帳所持者は208人。

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