【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:4
(2012年8月3日 朝刊)
元従軍慰安婦の女性たちが暮らす施設で話をする金美美さん(右)と卞蓮玉さん。卞さんが韓国内で被爆経験を語ることができた唯一の場所だという=7月10日午後4時33分、韓国・広州市
母の人生は埋もれた歴史
広島で被爆した韓国人女性の娘
韓国・ソウル市から南東へバスで1時間あまり。山々に囲まれた広州市に金美美(キムミミ)さん(54)と母・卞蓮玉(ビョンヨンオク)さん(76)が暮らす。
学生時代に留学経験のある記者は、取材でも何度か韓国を訪れた。しかし、日本で被爆した韓国の人たちの言葉を聞いたことはなかった。
「体の不調を訴えていた母が被爆者だと知ったのは大学生になった時です」。美美さんが振り返る。日本の新聞記事が自分の知らない母の姿を伝えていた。
広島出身で「杉本蓮子」として国民学校に通った。4年生だった1945年8月、寺の庭で強い光を浴びた。家に逃げる途中、背中の皮を引きずりながら歩く人たちを見た――。
不安と恐怖が美美さんを襲った。「病気が遺伝したらどうしよう」
その後、台湾、英国に留学。帰国後はドラマのシナリオを書いたり貿易関係の仕事をしたりと奔走した。母が被爆者だとは口外しなかった。妹と弟も同じだ。
母もまたそれ以上、身の上を語ることはなかった。
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卞さんにその半生を尋ねてみた。
45年秋、父親と他のきょうだい4人とで釜山に渡った。漁船の上で自分が朝鮮人だと初めて聞かされた。
自分たちの言葉を取り戻した人たちの中、「スッカラ(さじ)」という単語しか知らなかった卞さん。中学を卒業するまで、日本人をさげすむ「チョッパリ」と呼ばれ続けた。
15歳の時、父親を脳血管障害の後遺症で亡くし、生活苦から20歳で結婚。その頃から、肌に豆のような斑点ができ紫色に変色していった。血液の病気だった。
「日本帰り」「病気持ち」。しゅうとめはののしった。近所の人からは「原爆ママさん」と冷やかされた。原爆の投下で「解放」が早まったと考える人も少なくなかった。夫とは結局、別れた。
独裁政権下。過去を振り返る余裕も、救いを求める先もなかった。「被爆者を受け入れる土壌が、この国にはない」と思った。
75年に被爆者健康手帳を取得。02年から2年間、韓国原爆被害者協会の副会長も務めた。韓国でも日本の被爆者と同じ援護を、と訴えた。日本の被爆者や支援者がいたからこそできた。
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美美さんは今、ある思いを抱いている。
昨夏、母に紹介された自分と同じ「被爆2世」の男性に誘われ、山口県を訪れた。自らの体験を周囲に話す被爆者や、その体験を語り継いでいこうとする2世たちに出会った。
韓国はいまだに被爆者に体験を語らせない。そんな社会の一部分を自分も担っていたのではと感じた。母の人生は埋もれたままの歴史の一部。「その歩みをすべて記録し、本に残そう」
釜山市内で取材した被爆者の男性は「私一人が体験を語ったところで何が変わるのか」と話した。ただ、被爆者たちが証言できる場を作ろうとする2世たちにも出会った。被爆者の姿と言葉を映像に残し、伝えようとする市民団体がいた。
韓国社会が被爆の記憶をどのように語り継いでいくのか。植民地支配をし、その後も手を差しのべないままでいた日本にとって、よそごとではない。そして、平坦(へいたん)でも決してないその過程を記者としてどう伝えていけるのか、問い続けたい。
(清水大輔、32歳)
◆キーワード
<在韓被爆者> 大韓赤十字社によると、日本の敗戦後、現在の韓国に帰国した被爆者は約2万3千人。被爆者健康手帳の交付が認められなかったり、健康管理手当が支給されなかったりした。08年に、韓国内でも手帳交付の申請ができるようになったが、被爆状況を説明できる証人を確保できない人も多い。医療費の上限が定められるなど、日本の被爆者に比べ格差がある。