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【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:5
(2012年8月4日 朝刊)
自宅の書斎で話す星埜惇さん。「3・11」直後は放射線の知識を頼って、近所の人が次々に訪ねたという=福島市、山谷勉撮影
3・11が呼び覚ました記憶
福島に住むヒロシマ被爆者の星埜さん
「3・11」。そのときを福島市に住む元福島大学長、星埜惇(ほしのあつし)さん(84)は自宅1階の書斎で迎えた。電気、ガス、水道が止まった。新聞は来ない。頼りは携帯電話で見られるテレビ放送のみ。ニュースは約60キロ離れた福島第一原発が危機的状況だと伝えていた。放射線と向き合う日々がまた、始まった。
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「8・6」。67年前の夏、旧制広島高校の学生だった星埜さんは、休みで広島県呉市の実家にいた。その日の朝、広島の空に浮かぶキノコ雲を見た。
翌日、救護に入った。道に倒れたおびただしい数の人々。がれきの山から助け出した級友は全身が焼けただれ、口も利けない。炭化した口に水を落とすことしかできず、目の前で息を引き取っていった。学校の敷地に穴を掘り、次々に運び込まれる遺体を焼いた。8月下旬、実家に戻った。鼻血と下痢、倦怠感(けんたいかん)に襲われて1カ月寝込んだ。ずっと後になり、被爆による影響だと知った。
その後、経済学の道に進んだ。1951年に福島大学に赴任した。被爆者の中には縁談を断られた人もいれば、被爆したことを隠して生きている人も。そんな状況を少しでも変えたいと、求められれば大学や高校で体験を語った。
80年代半ば、活動を中止していた「福島県原爆被害者協議会」=キーワード=の再建にかかわり、事務局長に就任。85年4月、再建後の初会合で参加者の一人が口を開いた。
「原発を批判するなら参加できない。われわれ(原発がある沿岸部の)浜通りの人間は、多かれ少なかれ原発に関わっている」
当時福島県内では、市民団体が、71年から稼働した福島原発への反対運動を強めていた。当時も今も、被爆者本人や家族の中には原発で働く人がいる。原発批判と一線を画すよう求める声に、約20人の参加者の半数近くがうなずいた。
協議会再建の直後。違和感を感じつつも、星埜さんは「わかりました」と答えるしかなかった。
原子力を戦争に使う核兵器は否定するが、「平和利用」としての原子力は受け入れる。こうした考えに支えられ、戦後の日本社会は歩んできた。福島だけが特別なわけではなかった。
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再建から四半世紀。最大で176人を数えた県内の被爆者も高齢化が進み、今は80人余り。原発事故が被爆の記憶を呼び覚ました。
「車のナンバーに泥を塗られた」「避難先でホテルの宿泊を拒否された」。事故直後、福島差別ともとられる動きが広がった。広島へ向けられたかつての差別的なまなざしと同じだ。星埜さんは言う。「制御不可能な核を使う原発とはそもそも共存できない」
原発立地県に住みながら長く封印してきた疑問が、確信へと変わった。
昨年6月、星埜さんは会報に初めて原発批判の文章を書いた。「電力会社の振りまいた安全神話」――。明確に脱原発の方向性を打ち出した。
「ヒバクシャと呼ばれるのは私たちで終わりにしたい」。星埜さんの言葉に、核の平和利用を受け入れてきた歴史に決別しようという意思を感じた。しかし、議論が尽くされないまま大飯原発は再稼働した。原発事故で私たちの社会は何を学んだのか。
(神田大介、36歳)
◆キーワード
<福島県原爆被害者協議会> 1958年、広島や長崎で被爆した48人で創設。同郷の戦友による親睦団体の性格が濃く、会の存在を知らない被爆者もいた。68年ごろ休眠。83年に日本原水爆被害者団体協議会の要請を受け、星埜惇さんを事務局長に再建、活動を広げた。会員は最大で176人を数えたが、現在は県外避難者も含めて82人。