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紙面から from Asahi Shimbun

【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:6  (2012年8月5日 朝刊)

写真 「今は証言するためだけに生きている」と語る渡辺美代子さん=広島市中区の平和記念公園、小玉重隆撮影

語る、心に届くと信じて

 「この辺には多くの被爆者が水を求めてさまよっていたのよ。両腕から、皮膚がだらっと垂れ下がっていたんじゃよ」
 7月半ば、広島市中区の平和記念公園。被爆体験の語り部をしている渡辺美代子さん(82)が両腕を突き出し、小刻みに震わせた。中身は壮絶だが、語り口は淡々としている。
 聞いていたのは地元の小学6年生。よそ見して退屈そうな子もいる。後で聞くと「実感がわかない」「こわかった」とつぶやいた。戦争を知らない私自身、朗読を聞いているように感じた。渡辺さんの言葉は、子どもたちの心に届いているのだろうか。ふと疑問を感じ、渡辺さんを訪ねた。

   ■   ■

 「最初は嫌でしょうがなかったのよ。あの日の出来事を思い出したい被爆者なんて一人もいないわ」
 入院中の病室でベッドに腰掛け、渡辺さんは言った。病院で療養しながら語り部を続けている。
 ――高等女学校3年のとき、広島市の自宅を出ようとして原爆の閃光(せんこう)を浴びた。居間に行くと、髪の毛が逆立ち、頭から血を流した母親がいた。「助けて」。今でもその姿と叫び声を忘れることはできない。父親は上半身に大やけどを負い、終戦翌日に逝った。
 戦後、被爆者の男性と結婚したが、30代で死別。息子が1人いるが、被爆体験を話したことはない。「大半の語り部はそうだと思う。語り部はあくまで公人として、被爆の実相を伝えるためにやってきた。息子は被爆2世。無駄な心配をさせたくなかった」
 語り始めたのは30代後半。女手一つで子育てし多忙を極めた時、東京から、中学教諭の男性が突然訪ねてきた。修学旅行生に体験を語る被爆者を探していた。
 原爆の記憶は、思い出したくない過去だった。だが熱意に負け、子どもたちが、平和について考えてくれるのならと決意した。
 最初の頃は語り出すと、被爆した両親の悲痛な姿が思い浮かんで、涙が止まらなくなった。「だけど、子どもたちは何がなんだかわからないでしょ。だから、あえて感情を押し殺して、冷静に語っているの」。そう明かした。半世紀近い証言は数千回に及ぶ。話し終えると今も、どっと疲れが出る。

  ■   ■

 話をしても、最初は落ち着いて聞いてくれない。ただ、最後はわかってくれるのでは。そんな自負を支える出来事があった。
 証言を始めて20年ほどたったころだ。相手は、佐賀市から修学旅行で来た中学3年生。話し始めると1人の男子生徒が、わざと大きなせき払いを繰り返し、壇上に足を伸ばした。それでも、語り続けていると様子が変わっていった。気づくと姿勢を正していた。
 翌春、この男子生徒から手紙が届いた。「ぜひ卒業式に来て、変わった姿を見てほしい」。平和な時代を生きていることに気づかされたと、お礼の言葉があった。電車を乗り継いで行くと、数カ月前とは違う若者が深く頭を下げた。「ありがとうございました」
 この経験が、渡辺さんが語り部を続けていくうえで大きな力となった。
 原爆投下から67年、直接体験した世代は少なくなった。証言だけから当時の状況を実感するのは難しい。それでも、渡辺さんの言葉一つひとつには、被爆者が背負ってきた人生の重みがある。多くの被爆者が残してきた言葉や資料を手がかりに想像力をどう鍛えていくか、私自身の課題だ。
 (倉富竜太、37歳)

 ◆キーワード
 <語り部> 広島平和記念資料館が1983年から被爆体験証言者として登録。現在33人おり、平均年齢は80・21歳(4月現在)。このほか独自に語り部活動をしている団体も多い。一方、広島市教委が2010年、小中高生にアンケートしたところ、広島に原爆が落とされた日時を正確に答えられたのは、小学4〜6年で33%(1995年は56%)、中学生で56%(同75%)。答えられない子どもが増えている。

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