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【2012年の夏】
「脱原発」踏み込まず 核の平和利用で沈黙 広島平和宣言
(2012年8月6日 夕刊)
《解説》東京電力福島第一原発事故で問い直される「核の平和利用」をめぐり、被爆67年の「8・6」に広島が何を発信するかが注目された。しかし、松井一実市長が読み上げた平和宣言は、エネルギー政策に関し昨年とほぼ同じ中身。被爆地としての立ち位置を示すことなく、「脱原発」に踏み込まなかった。
原発事故をきっかけに「脱原発」を求める市民のうねりが広がり、広島の被爆者団体も原発への批判を強める。核を軍事利用と平和利用に分ける考え方自体に疑問が生まれている。
実際、原発事故で福島県から避難して来た人や、平和宣言に証言が採用された被爆者からも「脱原発に踏み込んで欲しかった」との声を聞いた。
ところが、エネルギー政策で国民的議論が進められているという平和宣言の言葉は、まるで傍観者のようだ。核の平和利用について沈黙し、広島を代表する声である平和宣言は、同じ場所に立ち止まっているように見える。原発事故まで、日本社会は核兵器は否定しながらも、核の平和利用としての原発は受け入れてきた。被爆地も被爆者も例外ではなかった。孤立しながらも「核と人類は共存できない」と説いたのが、広島の被爆者運動を支えた哲学者、故・森滝市郎氏だった。森滝氏の言葉を2年続けて引用した、その思いが見えない。
エネルギー政策に関して松井市長は日頃から、「国が決めるべきこと」とのスタンスを崩さない。人類史上初の核兵器の被害を受けた広島市のトップがそれでいいのか。日本の核をめぐる議論をリードし、国を動かすぐらいの気概がなければ、被爆地を代表する政治家とは言えまい。少なくとも、核の平和利用をどう考えるのか、明確な意思を示すべきだ。
(後藤洋平)
●黒い雨「拡大困難」 野田首相
野田佳彦首相は6日の広島市での記者会見で、原爆投下直後に放射性物質を含む「黒い雨」が降った範囲に基づく政府の援護対象地域を広げることについて、「科学的、合理的根拠なくしては困難だ」と否定的な考えを示した。そのうえで「(健康への影響が)不安な方がいるなら、相談などで対応する検討をしたい」とも語った。
広島市などは健康意識調査に基づき「現在の援護地域の約6倍の範囲で黒い雨が降った可能性がある」として援護地域拡大を主張。厚生労働省の検討会は7月に「科学的判断は困難」とする報告書をまとめた。
■広島市長、平和宣言全文
1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった」。それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑(にぎ)やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。
そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ」。この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍(しかばね)が重なり、声にならない呻(うめ)き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児、死んだ赤子を抱き締め虚(うつ)ろな顔の母親など、正に生き地獄だったのです。
当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷(やけど)で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌(がん)で亡くなりました」。広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。
深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以(もっ)て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛(つら)さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。
広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。
世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。
平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国を始め10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアチブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。
2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曽有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。
あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断をしてください。
私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
2012年8月6日 広島市長 松井一実