ここから本文エリア

【2012年の夏】
ヒバク、いま語る・変える 原爆の記憶、3・11が封印解いた 8・6広島
(2012年8月6日 夕刊)
原爆で亡くなった父らが眠る墓に手を合わせる川本恵子さん=6日午前5時36分、広島市中区、筋野健太撮影
福井県から式典に参加した河内美知子さん=水野義則撮影
福島県から式典に参加した佐川正一郎さん=水野義則撮影
原爆投下から67年、広島に鎮魂の日がめぐってきた。原発事故を機に「脱原発」のうねりが広がり、核の平和利用が問い直される時代。あの日の体験をいかに受け継ぎ、何を学ぶべきか――。被爆地で人々は核と向き合った。
●4歳で被爆・川本恵子さん
4歳の時に被爆した川本恵子さん(71)は6日早朝、広島市中区西白島町の自宅近くで、墓に手を合わせた。原爆で亡くなった祖母、父親、叔父が眠る。
一人娘にさえ語らずにきた被爆体験。それでも、話そうと決意し、広島市の語り部の養成研修に通い始めた。「つら過ぎて思い出したくなかった。今でもしゃべると涙が止まらないのよ。だけど被爆者が話さないといけない」
昨年3月の東京電力福島第一原発事故がきっかけ。昨年4月、20代の知人女性と自宅でテレビを見ていたときのことだ。事故後に設置された避難所の様子が映し出されると、「広島でも、弁当の支給があったり、避難所が設けられたりしたんですか」と尋ねられた。女性は広島市の出身。弁当など支給されるはずもない時代。原爆被害の記憶が風化していると衝撃を受けた。
「元気な子どもを産めない」「放射線被害は伝染する」。いわれのない差別にさらされてきた。福島でまた、同じようなことが繰り返されるのではないか。そんな不安がよぎった。
川本さんはあの日、広島市上柳町(現・中区)の自宅にいた。ピカッと光った次の瞬間、倒壊した家の下敷きになり、兵士に助け出された。寸前までおんぶしてくれていた祖母も建物の下敷きになり、翌朝息を引き取った。自宅に残った父親も終戦翌日に他界した。
被爆した叔父が疎開先を頼ってきたが、下痢や吐血が続き、山奥に隔離された。母親に「うつるけ、行っちゃいけん」と言われ、見舞いにも行けないまま、被爆約3カ月後に逝った。
「いま思えば、伝染病でも何でもないのにね。偏見がすごかった」。何度も振り向きながら山奥に向かった叔父の悲しそうな顔が、いまだに忘れられない。
川本さんは、24歳で見合い結婚をした。2年後、一人娘を出産した。だが当時の夫が発した第一声は「手足はちゃんとあるか」。
放射線の影響への不安、周囲の差別や偏見を乗り越えてきた自分の半生。それを語り続けることが、福島の人々の役に立てばと願う。
(倉富竜太)
●父の重荷、受け継いだ 福井・河内美知子さん
再稼働した関西電力大飯原発など全国最多の14基の原発を抱える福井県。遺族代表として式典参加した河内美知子さん(63)は、広島で被爆し、昨年10月に95歳で亡くなった父、橋詰(ひとし)さんの写真をバッグに収めたまま、静かに手を合わせた。
父が被爆者と知ったのは成人になってから。「つらい過去は思い出したくないのだろう」と思うと、自分から聞けなかった。式への参加が決まり、母に初めて話を聞いた。福井から徴兵で広島に出ていた夏、広島駅前の軍事車両近くで洗顔の順番待ちの列に並んでいたとき被爆したこと。苦しくて息ができず、死を覚悟したこと。顔や腕にやけどを負ったこと――。
亡くなる1カ月前、父から突然、父が父の母と写った一枚の写真を手渡された。寿命を悟り、写真とともに、核兵器廃絶の願いを託したのではないか。話を聞いた今、そう思う。
地元は原発論議のうねりのさなか。働く人のことを考えれば複雑だ。だが、放射線への不安はつきまとう。「広島に来て、核の恐ろしさを肌で感じた。父の荷物をこれから下ろしていってあげたい」。苦しみを秘めたまま亡くなった父をしのび、思いが強まった。
(宮崎園子)
●平和へ犠牲どれほど 福島・佐川正一郎さん
福島県の遺族代表、佐川正一郎さん(60)は初めて式に参加した。「多くの人を犠牲にしなければ平和は願えないのだろうかとも思った」。約5万人が集まり、公園内の数々の碑に花を手向ける姿を目にして「広島は67年前から放射線の怖さと向き合ってきたのか」と実感したという。
父の安正さんが今年2月、84歳で亡くなった。陸軍特別幹部候補生で、救護のために広島市内に入って被爆した。東京電力福島第一原発で事故が起きた時、「えらいことになった」と絶句していたという。
自宅のある矢祭町は、福島第一原発とは80キロ以上離れている。こんにゃくの原料製造会社を経営し、原料のこんにゃく芋も他県から仕入れる。検査を続け、製品から放射性物質は検出されていない。
全国の業者と取引があるが、「悪いけど使えないんだよ」と関東の得意先を中心に取引が減った。「ここの空気や水は安全です」と説明するが、なかなか伝わらない。原発事故が生業を揺るがす。「広島や長崎も同じような経験をして復興を遂げた。私も頑張ろうと思う」
(後藤洋平)