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【2012年の夏】
黒い雨救済、深い溝 被爆者「もう時間がない」
(2012年8月7日 朝刊)
「黒い雨」=キーワード=の被害救済を求める被爆地と、科学的根拠を理由に拒む政府――。6日、原爆投下から67年の「広島原爆の日」に浮かび上がったのは、被爆地の声が国に届かない現実だった。
6日午前、広島市内のホテル。野田佳彦首相と広島の被爆者7団体の代表が向き合った。
「もう時間がない。急いでやっていただきたい」。広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の金子一士理事長(86)が切り出した。原爆投下直後に降った「黒い雨」で健康被害を訴える人々を救済するよう求めた。
被爆者団体代表の要望を一通り聞いた首相は、用意した手元の紙を読み上げた。「要望地域では放射線被害があったとは考えられないと報告されている」
広島市などは「黒い雨」の援護地域の拡大を国に要望。しかし、厚生労働省の検討会が7月にまとめた最終報告書は「放射線の影響は実質、ゼロとみなしうる」と結論づけていた。
被爆地には怒りと落胆が広がった。
7月末に黒い雨の被害に遭ったとされる人々の証言集を出版した、広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会。高野正明会長(74)は「納得できない。今後も見直しを訴える」。
1時間前に終えた平和記念式。松井一実市長も平和宣言で「拡大に向けた政治判断をして下さい」と求めたばかり。市幹部は「最後の望みをかけたが絶望的になった」と声を落とした。
「黒い雨」問題だけではない。原爆症認定制度の見直しも先が見えない。
1年半以上、認定制度をめぐる話し合いが続く厚労省の検討会では、科学的根拠を重視する専門家と、救済を優先すべきだとする被爆者の意見が一致しない。
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、被爆者全員に一定の手当を支給したうえ、病状に合わせて上乗せする制度案を提示したが反対が相次いだ。6月末、各委員の意見を記した中間報告書を作成せざるを得なかった。委員の中からは「検討会では結論は出ず、政治判断を仰ぐことになる」という声も出ている。
●国、あくまで根拠に固執
「被爆地域の指定は科学的、合理的な根拠が必要。申し訳ないが、拡大は難しい」。小宮山洋子厚生労働相は被爆者代表との面会の場で、黒い雨をめぐる援護地域の拡大を改めて否定した。野田首相の発言も、この見解を踏まえたものだ。
黒い雨でも原爆症認定でも厚労省がこだわるのは、国が費用を負担するのに見合うだけの「根拠」だ。原爆は放射線の影響が長期にわたるという特殊性から医療費負担などの援護策が続けられてきた経緯がある。根拠がないものまで対象を広げれば空襲などほかの戦争被害との公平性が損なわれるとの考え方に基づく。
厚労省検討会の報告書は広島市の調査手法の限界を指摘。拡大要望があった地域について「健康影響が生じたとの考え方は支持できない」と否定し、追加調査の意義も低いとした。
原爆症もがんなど放射線に関係する病気であることが前提で厚労省や専門家にはすでに幅広く認めているとの意識が根強い。検討会では「世界中の専門家のだれが見てもありえないものが裁判では出てきている」との発言も出た。
検討会の中間とりまとめは、被爆者に配慮しつつも納税者の理解も重視する姿勢をにじませた。
小宮山厚労相は「司法との乖離(かいり)は何としても解消しなければと思っている。法改正を含め前進と思ってもらえる対応をしたい」と表明したが、被爆者との溝を埋めるのは容易ではない。
◇科学的に証明、不可能な要求
<田中熙巳(てるみ)・日本被団協事務局長の話> いまだに「黒い雨」の被害を訴え、救済を求める人々がいる。ただ、被爆から67年が経ち、被爆者側に厳密な科学的根拠を求めることは事実上、不可能を強いることになる。政治が救済を優先してくれなければ、死を待つだけになってしまう。原爆症の認定制度をめぐっても、厚生労働省は現行の修正で済ませたいように見える。それでは救済にならない。国は「被爆者には十分な援護をしてきた」と考えているのかもしれないが、援護を今も待っている年老いた人々がいる事実に目を向けるべきだ。
◆キーワード
<黒い雨> 原爆投下直後に降った放射性物質やちりを含む雨。広島では1953年発表の調査で、東西約11キロ、南北約19キロの範囲が76年、公費で健康診断が受けられる援護対象地域に。がんなどの病気になると被爆者健康手帳が交付され、医療費の自己負担分が免除される。