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紙面から from Asahi Shimbun

【2012年の夏】
核に苦しまぬ世界を 「日常の大切さ忘れぬ」 長崎原爆の日   (2012年8月9日 夕刊)

写真 被爆者歌う会「ひまわり」の合唱で始まった平和祈念式典=9日午前10時35分、長崎市、岩下毅撮影

 人間が放射能に脅かされることのない世界へ。被爆から67年の夏、長崎と福島の思いが重なった。手探りの歩みが始まっている。

 平和祈念式典が開かれた平和公園から約30キロ離れた長崎県西海市の県立大崎高校。9日午前9時半、被爆者の宮田隆さん(72)が生徒111人に語り始めた。そばに、長崎へ投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」の実物大模型がある。
 直径1・52メートル、長さ3・25メートル。木枠に黒く塗った布を張ってある。昨夏、木工所に頼んで作ってもらった。
 爆心地から2・4キロの自宅で被爆。5歳の目に焼き付けられた光景がある。皮膚が焼けただれ、ぼろぼろの白衣を着た若い看護婦が、水を求めて自宅に訪ねてきた。目の前で崩れるように倒れ、息絶えた。「その年、約7万4千人が亡くなりました」
 三菱長崎造船所に勤めていた父や、母と兄は無事だったが、爆心地近くに住んでいた伯父夫婦は即死だった。当日夜は自宅近くの芋畑で寝た。バリバリと町が燃え、夜空を赤く染めた。
 大学を卒業した1963年、三菱電機へ。営業マンとして、原発の部品も売った。81年に運転を始めた九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)2号機とも縁がある。冷却水用ポンプのモーター納入にかかわった。
 定年退職して長崎県雲仙市に移り住み、3年前に前立腺がんを患った。長崎に投下された原爆は、自分の原点だ。そう考えて、実物模型を作ることにした。
 被爆の記憶を学校で語り始めて6年後、3・11が起きた。「原発は未熟な技術だった」と、いま思う。
 「核兵器の恐ろしさを、日常の平和の大切さを忘れていないか」。午前11時2分になった。高校生たちと一緒にファットマンに向き合い目をつむる。ファットマンの模型は、小刻みに揺れていたように見えた。
 (江崎憲一)

 ●「希望」、福島に持ち帰る 高校生平和大使・高野桜さん
 式典には若者たちの姿もあった。核兵器廃絶を国連で訴えるため長崎から毎年派遣される「高校生平和大使」。福島県から初めて選ばれた県立小高工業高3年の高野桜さん(18)は、目を閉じた。「二度と放射能に苦しむ人が出ませんように」
 東京電力福島第一原発から北に15キロの南相馬市小高区で生まれ育った。高校に続く桜並木、みんなで遊んだ海を今年も見ていない。
 長崎の爆心地近くの通りは、かつて原爆で破壊されたとは思えなかった。「大切な人たちと暮らせる日が来るんじゃないか」。自分たちが復興の担い手になる。長崎を見て、やる気が出た。平和を願う人々の声も聞き、「この経験を、まず自分の学校から伝えていきたい」。
 (花房吾早子)

 ●村の復興目指し「助言いただく」 福島・川内村長
 福島の原発事故で一時は「全村避難」を余儀なくされた福島県川内村の遠藤雄幸村長(57)も、式典に参列した。健康に問題ないと言われても、低線量被曝(ひばく)は気がかりだ。その中で被爆地を意識し、ゆかりのあった長崎を訪れた。「原爆は想像を絶する被害。福島の事故とは違うが、原子力が原因であることは変わりない。村の復興を全力で進めるため、アドバイスをいただければ」
 (田村隆昭)

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