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【2012年の夏】
(記者有論)被爆体験の継承 熱意と行動力で軽やかに 花房吾早子
(2012年8月10日 朝刊)
被爆地に行ったことも、被爆者と会ったこともない。でも、ぐんぐん進んで目の前の壁を次々に越える。彼女の「軽さ」は驚きだった。
私はこの夏、社会面連載「壁の向こうに〜記者が見た被爆67年」の取材班に加わった。4月から長崎市で暮らす管理栄養士の彼女と出会った。秋田市出身の24歳。被爆体験記の朗読ボランティアを目指して学んでいる。
平均年齢が77歳を超えた被爆者の記憶を、どう次の世代に引き継いでいけるか。そんな長崎の切迫感が今年、いくつかの形になった。
彼女が通う朗読講座は、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が4月に始めた。5月、長崎原爆被災者協議会に被爆2世の会ができた。8月9日の平和祈念式典で歌った被爆者の合唱団は、初めて被爆者以外からも参加を募った。
でも、彼女が長崎にいる理由はこうした流れとは別だ。きっかけは、途上国の子どもが飢餓で命を落としている現実を知ったこと。飢餓をなくすには平和→平和と言えば広島・長崎→秋田と同じ日本海側に近いから長崎へ、と思いつくままやって来た。
ニュースサイトで朗読講座を知り、初めて読んだ原爆の本に「激アツ」と叫んで表紙を写メール。縁遠い存在だった被爆者とおしゃべりや食事を楽しむ。ブログやフェイスブックで自身の活動を紹介するが、「押しつけたくない。読みたい人が読み、動ける人が動けばいい」と話す。
初めは被爆体験記をめくるのが怖かった。被爆者に何を質問すればいいのかもわからなかった。それでも、原爆を知りたい思いと若い行動力でぶつかった。
そんな彼女に「継承者」という肩書は似合わない。被爆地の重苦しい危機感から離れ、軽々と拡散して芽吹く種のような存在になる可能性を感じた。
あの日の惨禍を知る人たちの記憶にこそ、被爆地のメッセージは詰まっている。それを受け継ぎ、語り伝えるべきなのは言うまでもない。でも、使命、責任といった言葉に壁を感じる人がいるかもしれない。千葉出身で昨春に長崎へ赴任した記者5年目の私もほんの少し、そんな思いになったことがある。
本気で伝えたい気持ちがあれば、始まりも方法もさまざまでいいし、大義名分にこだわる必要もない。67年にも及ぶ歴史と、関わる人の多さにたじろぎそうになっていた私は、彼女に教えてもらった。
(はなふさあさこ 長崎総局)