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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
(核といのちを考える 断絶を越えて) 被爆と被曝、つなぐ心 広島にシェアハウス (2013年8月1日 朝刊)

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 福島第一原発で事故が起きた2年前。福島市に住んでいた等々力(とどろき)隆広さん(50)は生まれたばかりの息子への影響を考え、妻と子を妻の故郷、広島へ避難させた。自らも昨春に合流し、広島県西部の廿日市市で暮らす。しかし、見えない放射線の現実に再び向き合うことになった。

 今年4月中旬、広島県安芸太田町。等々力さんは、放射性物質を含む「黒い雨」の被害を訴える住民の会合に初めて参加した。「国は都合のいい資料しか見ない」「なぜ実地調査をしないのか」。集まった約20人の住民は、口々に声を上げた。

 広島への原爆投下後、「黒い雨」が周辺に降った。国は1976年、南北19キロ、東西11キロの範囲について特に雨量が多かった地域と指定。地域内でがんなどを発症した住民を被爆者と認め、援護対象にした。  しかし指定外の地域の住民は被爆者と認定されなかった。広島県や市は独自の調査で、「黒い雨」が降った範囲は国の指定より6倍の広さに及ぶと指摘。援護対象の拡大を求めたが、厚生労働省の検討会は昨夏、「科学的根拠がなく拡大は困難」と結論づけた。

 「内部被曝(ひばく)、低線量被曝など共通点について勉強したい」。等々力さんは会合で語りかけた。投下後の約5カ月で14万人が亡くなった原爆と、2年4カ月経った今も放射性物質を出し続ける原発事故は「一緒にくくれない」と思う。

 広島の被爆者にも「原発事故と原爆は同一視できない」との声はある。だが、等々力さんは「黒い雨の被害」の訴えを聞き、福島で直面した「住民の不安にこたえない国」の姿に重なるものがあると感じた。  等々力さんの自宅があったのは、福島第一原発から約50キロの福島市内。福島県によると、避難指示区域外の同市などからも、放射線の影響などを心配して故郷を離れた人は約3万人に上る。

 広島で「黒い雨」の被害を訴える住民らは35年前から活動を続けている。等々力さんは「広島を思えば、福島の苦しみもずっと続くだろう。放射線被害の教訓を双方がわかち合うことはできないか」と思う。

    *

 7月17日。長崎在住で被爆2世の平野伸人(のぶと)さん(66)は、福島県南相馬市の県立小高工業高を訪ねた。
 「被爆地が復興したように、いつか福島のみなさんが幸せに暮らせるよう、心を通わせていきたい」  平野さんは2月に結成された「福島と長崎をむすぶ会」のメンバー。原爆について学んでもらおうと今夏、同高校など南相馬の4校から生徒10人を長崎に招く。きっかけは、会代表で被爆の語り部でもある広瀬方人(まさひと)さん(83)の体験だ。

 広瀬さんは一昨年の震災後、修学旅行に来た福島の女子高生たちに原爆や放射線被害の恐ろしさを語った。生徒たちの感想文には、体調や出産への不安がつづられていた。他の被爆者にも声をかけ、高校宛てに励ましの返信を送った。しかし学校側は生徒たちが放射線を過度に不安視しないかと心配し、生徒に手紙を見せなかった。  「被爆者の私たちは福島のために何ができるのか」。広瀬さんらは悩んだ末、「むすぶ会」を立ち上げた。  仮設住宅での生活を続けたり、県外で働く父親と離ればなれで暮らしていたり。南相馬の生徒たちはいまも、困難と向き合っている。津波で幼なじみの親友を亡くした高1の大竹直樹さん(15)は話す。  「震災で苦しく悲しい思いもしたけれど、長崎の人もつらい思いを抱えてきた。自分の気持ちを伝え、長崎の人の気持ちも考え、これからに役立てたい」

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 福島で障害者介助の仕事をしていた等々力さんは、被災地に残る障害者のことが気がかりだ。福島の力になりたい。広島で知り合った人たちの協力を得て廿日市市の古民家を改修し、福島の人が一時休暇などで使えるシェアハウスにした。この夏オープンする。
 「広島に学びつつ、福島とつながり続けることで、放射線被害の現実について声を上げていきたい」

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 広島、長崎の被爆から68年。原爆の惨禍の記憶を伝える人は次第に少なくなっている。次世代に向け「核なき世界」への道のりを確かなものにするために、核廃絶の理想と現実、人々の心を隔てる「断絶」をいかに乗り越えるか。記者が現場を訪ねた。
 (この連載は斎藤靖史、宮崎園子、宋光祐、後藤洋平、菊池文隆が担当します)

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