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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
仲さんの被爆、伝えねば 幻のカルテ、68年ぶり発見 捜し続けた後輩らの思い実る (2013年8月4日 朝刊)

世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(享年36)のカルテなど診療の記録が68年ぶりに見つかった。仲さんが治療を受けた東京大学病院の関係者からも驚きの声が上がった。「幻のカルテ」を捜し続けていた人たちの遺族が思いを語った。

 「夫が生きていたら、どんなに喜んだでしょう」。仲さんの診療記録の発見を聞き、神奈川県綾瀬市在住の白戸圭子さん(83)は声を詰まらせた。3年前に87歳で亡くなった夫の四郎さんは、ずっと仲さんのカルテを捜し続けていた。

 1945年8月、四郎さんは東大医学部の学生だった。仲さんの血液検査を手伝った。仲さんの解剖にも立ち会った。

 仲さんのカルテを捜し始めたきっかけは、78年2月26日付の朝日新聞(東京本社版)の声欄だった。仲さんの演劇関係の2年後輩だった江津萩枝(えづはぎえ)さん(故人)が、東大入院中の仲さんについて情報提供を呼びかけていた。

 四郎さんは江津さんと何度もやりとりし、江津さんが、東大にあった診療記録の一部を閲覧できるよう協力した。旧神奈川県立衛生短大教授だった四郎さんは80年、カルテを捜し求めて、米国立公文書館を訪ねたが見つからなかった。あきらめて乗ったバスで、米国の大学にいた兄の知人に会い、米陸軍病理学研究所を紹介された。出された資料の中に、仲さんのカルテの英語の抄訳を見つけた。しかし、原本はなかった。

 江津さんが声欄に投稿したきっかけは、77年に桜隊の三十三回忌に出席したことだった。隊長や花形の資料は多く残っていたが、仲さんの資料はほとんど残っていなかった。自分で調べ、80年に仲さんの悲劇を中心にした「桜隊全滅」を出版。この著書が、映画監督、新藤兼人さん(故人)の目にとまり、映画「さくら隊散る」(88年)になった。  「母は、誰かが後世に伝えなければ、仲さんの存在が風化して歴史から消えてしまうと思い、調べ始めたようです」と、神奈川県鎌倉市在住の長男、兵太さん(74)は振り返る。

 戦没学生の手記を集めたミリオンセラーの「きけ わだつみのこえ」の編集や出版に尽力した医師の中村克郎さん(故人)も、仲さんに出会い、影響を受けた一人だ。45年8月、当時、東大の医学部生だった中村さんは、東大安田講堂の前で病院を探していた仲さんを見かけ案内した。2日後、仲さんを「原子爆弾症」と診断した都築正男教授(故人)の講義を受けた。教授は、仲さんを教室に同行して「この方が世界初の原爆症患者です」と紹介したという。  長女で医師の中村はるねさん(59)は「父の活動の原点は、出征直前の伯父から託された手記と、仲さんに出会って原爆の恐ろしさに衝撃を受けたことでした」と語った。

 ■東大病院「歴史的な記録」
 「これは明らかに原本。歴史的な記録の発見ですね」。東京大学病院の國土典宏教授(肝胆膵〈すい〉外科)は驚きの声を上げた。見つかった仲さんの診療記録には、体温の変化などがひと目で分かる「温度板」というカルテの一部が含まれていた。

 仲さんは東大病院第二外科(現肝胆膵外科)に入院した。國土さんに1945年8月の記録を保管庫で捜してもらった。入院記録の417番に「仲みどり」の名前があった。カルテは30〜40人分ずつ製本され、保管されている。しかし、仲さんのカルテがあるはずの400〜435番の分冊だけが消えていた。

 國土さんは「今回見つかった記録は、同じ時期の患者さんの記録と、用紙だけでなく筆記用具の種類や色の使い分け方までまったく同じだ」と話した。

 診療の経緯一覧も原本と確認された。東大病院は1883年から解剖の記録を全て保存している。1万6586人目が仲さんだが、表紙だけなかった。表紙には、患者の臨床経過をまとめた記録をつける。深山正久教授(病理学)は「これは本来、表紙としてここに、とじられているべき記録ですよ」。(大岩ゆり)

 ◆江津萩枝さんが情報募る<1978年2月26日付本紙「声」>
   ○原爆で死んだ女優、仲みどりさんは…
 鎌倉市 江津萩枝(無職67歳)
 日ざしが春めいてくると、私は「原爆」にかかわる想念に心が傾きます。(略)世界情勢は核兵器の恐怖を身近に感じさせ、老人ながら、じっとしていられません。

 私は、広島の原爆で全滅した当時の情報局翼下の移動劇団「桜隊」について調べていますが、占領下のプレスコードで、原爆関係資料は全部米国に持ち去られ、箝口(かんこう)令がしかれていたため、追跡調査は困難です。「桜隊」九人のうち五人は、事務所の焼け跡で白骨体でみつかり、他の三人は避難先で死亡、あとの一人、女優仲みどりさんは裸体にシーツ一枚をまとって逃げ、最初の広島発上り列車で東京に帰り、東大病院に入院、第一号患者として二十六日に死去したまではわかっていますが、入院中の状態、治療の模様などは現在も全く不明なのです。

 彼女のカルテ類は、米国に持ち去られたと思いますが、当時東大病院に勤務しておられた若い医務局員や看護婦さんならば、いま、どこかにご健在ではないか、ぜひ当時のことをお聞かせ願いたいと思います。

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