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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 原爆症、幻のカルテ 原本を発見 初の診断、仲みどりさん (2013年8月4日 朝刊)

写真 仲みどりさんのカルテと診療の記録(年齢は誤記。画像の一部を加工しています)=池永牧子撮影

 1945年8月6日、広島で被爆し、世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(享年36)のカルテの一部などの診療記録が見つかった。戦後、行方不明になり、「幻のカルテ」として研究者が捜していた。被爆時の様子や18日後に亡くなるまでの様子が詳細に記されていた。

 仲さんは移動演劇隊「桜隊」の一員。爆心地から約750メートルの宿舎で被爆。実家のある東京に逃げ帰り、東京大学病院を受診した。

 見つかったのは、カルテのうち、治療歴や血液検査の結果、体温などが一目でわかる記録と、担当医がまとめた診療の経緯一覧。診断名には「四肢爆創(原子爆弾症)」と記されていた。当時の関係者の遺族が、遺品を整理していて発見した。朝日新聞が東京大学に取材し、仲さんの記録の原本と確認した。

 仲さんの症状や解剖結果は、日本学術会議の報告書や、米軍が英訳して持ち帰った原爆資料に引用されている。しかし、原本の大半は行方不明で、研究者の間では「米軍が持ち去った」「米軍の接収を恐れた関係者が隠した」などの諸説があった。行方不明の経緯は不明だが、今回の発見で、米軍の関与は否定された。

 診療記録によると、仲さんは8月6日午前8時過ぎ、台所にいた。突然、2メートル四方の黄色い閃光(せんこう)が差し込み、ボイラーが破裂するような音がした。がれきからはい出た時には下着1枚で、傷だらけだった。強い吐き気に襲われ、吐いた。周囲の火勢が強く、川に入ったところで救助され、収容所に運ばれた。劇団員の半数以上は即死だった。

 収容所では何の処置もなく、ムシロ1枚を身にまとって広島発の列車に飛び乗り、10日未明に東京に戻った。被爆11日目の16日、東大病院に入院。白血球数は正常の10分の1以下の1立方ミリ当たり400だった。

 翌日、脱毛が始まった。22日には白血球数が300に下がった。23日に米粒大の赤い出血斑が出現。24日午後0時30分、亡くなった。

 当時、大量被曝(ひばく)の健康影響はよく分かっていなかった。仲さんを診た東大の都築正男教授(故人)は数少ない放射線医学に詳しい医師で、初めて「原子爆弾症」と診断した。45年8月29日付の朝日新聞に「従来、原子爆弾の及ぶ範囲は爆風による破壊と、熱線によるやけどと考えられていたが、さらに『放射能物質』による害作用が証明された」と語っている。

 神谷研二・広島大学原爆放射線医科学研究所教授は「症状や爆心地からの距離を考えると(100%致死的な)8千ミリシーベルト以上の被曝だろう」とみる。被曝医療に詳しい前川和彦東大名誉教授は「最期は感染症が全身に広がり、敗血症で亡くなったようだ。致死的な被曝による体の変化を克明に記した貴重な記録だ」と言う。

 (大岩ゆり)

 ■個性光る脇役、映画化も
 仲みどりさんは1909年、東京生まれ。父は日本橋に今も続く塗料問屋の2代目だった。大柄で気っぷがよく、個性的な脇役を演じた。築地小劇場や苦楽座を経て、45年1月、軍需工場で働く労働者らを慰問する移動演劇隊「桜隊」に参加。同年8月、広島市の桜隊の宿舎で被爆。東京に戻った後、体調不良で東京大学病院に入院。被爆18日後に36年の生涯を終えた。

 東大病院では、死亡までの経緯や、死亡後の解剖結果などが記録されたが、解剖結果の記録以外の原本は行方不明になっていた。

 仲さんの生涯は、新藤兼人監督の映画「さくら隊散る」(88年)でも描かれた。毎年8月6日、東京・目黒の五百羅漢寺で、桜隊の原爆犠牲者の追悼会が開かれる。

 ■入院から死亡までの経過
◆1945年8月
 16日 東京大学旧第二外科に入院。体温は37.8度。白血球数は通常の10分の1の400
 17日 脱毛が始まり、背中の傷が急に悪化
 19日 体温39度に上がる
 21日 体温40度近くに。17時から25分間、悪寒と戦慄(せんりつ)が続く。輸血
 22日 白血球数300に減少。傷の周りに感染性の潰瘍(かいよう)できる。輸血
 23日 注射を刺した部位に感染性の潰瘍。米粒大の出血斑があちこちに出る。輸血
 24日 体温40.4度に。午後0時30分死亡

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