english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 原爆の子37人の戦後 今月、手記出版 放射線の恐怖・平和への感謝、つづる (2013年8月5日 夕刊)

写真 「原爆の子」の初版本を手に、編者の長田新さんと記念撮影をした子どもたち=1952年、広島市、早志さん提供

 広島で被爆した子ども105人の作文を集め、原爆投下の6年後に出版された「原爆の子」(岩波書店)。子どもたちは戦後をどう生きたのか。うち37人が手記を寄せた「『原爆の子』その後」が今月中旬、出版される。平和な時代への感謝や放射線の恐怖、被爆者への差別に直面した思いがつづられている。

 作文を書いた子どもたちの親睦会「『原爆の子』きょう竹会」の会長で広島市安佐南区の早志(はやし)百合子さん(77)が手記を集めた。1989年からメンバーに後日談を募り始めた。

 きっかけは、ともに自宅で被爆した母政子さんの死だ。甲状腺がんが転移し、手術を7回繰り返した。それでも「ぜったいに生き抜くんじゃ」と語っていた母の人生を振り返り、「被爆者の『その後』を伝えたい」と思い始めた。

 つらい思い出が多いのか、手記はなかなか集まらなかった。原爆の悲惨さや平和の大切さを将来に伝えたい――。早志さんは一人一人に手紙で思いを伝えると、少しずつ返事が寄せられるようになった。

 「家族そろって一応の食事ができる幸せな日々を送っています」「孫もでき、幸せに暮らしている」。平穏な日常や、原爆症への不安がつづられていた。

 5歳で被爆した女性は「体の調子が悪い時などは、体内の残留放射能の影響を考えるようになった」。74年に母親を亡くした男性は「次は私の番ではないかと思った」と心の内を明かした。

 被爆時に女学校2年だった女性は戦後、義理の祖父と実父、兄、いとこを肝臓がんや白血病で亡くした。「核の恐ろしさは広島と長崎で十分分かったはずだ。これ以上不幸な人をつくってはいけない」と訴える。

 「一番苦しい思いをしたのは、結婚のことでした」と書いた女性も。被爆の一言で男性は遠ざかる。「3度、4度となると、さすがの私もショックでした」

 原爆で父を亡くした別の女性は、結婚の約束をした男性の実家に行った際、父親が息子に「片親で育った娘をもらう気か」と言うのを聞いた。

 早志さんは99年時点で集まっていた33人分の手記で冊子を300部つくり、広島市内の中学校などに寄付。その後、「もっと多くの人に読んでほしい」と出版社を探し、今年5月に「本の泉社」(東京都文京区)が刊行を引き受けてくれた。本には、新たに4人分の手記も加えた。

 早志さんは86年に乳がんが見つかり、その1年後に心臓発作で倒れた。「原爆の子たちの人生は、むしろ戦後の方が大変だった。記録を残したかった」

 本はA5判256ページ。税込み1575円。(佐々木敦斗、後藤洋平)

 ◆キーワード
 <「原爆の子」> 広島大教授だった故長田新さんが広島の子どもたちの被爆体験をつづった作文をまとめた。51年10月に出版され、故新藤兼人監督が52年に映画化。多くの外国語にも翻訳された。現在はワイド版岩波文庫(上下2巻)として販売されている。

《2013年の夏》 記事一覧