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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 廃虚の広島、生きた 投下の日に産声、68年ぶり再会 原爆の日 (2013年8月6日 夕刊)

写真 爆心地近くの相生橋で語り合う(左から)吉見信子さん、斎藤孝さん、西原幸恵さん=6日午前、佐藤慈子撮影

 原爆投下から68年。今もあの日の「地獄」を忘れられない人々がいる。健康をむしばまれ、今も心の傷に苦しむ人々がいる。戦後70年が迫り、被爆者たちの高齢化が進むなか、援護や救済を求める声にどう応えるか。被爆の記憶と核廃絶の願いを次世代にどうつなぐかが問われている。

 6日早朝。原爆のために亡くなった人たちに祈りを捧げようと、2人の男女が平和記念公園を訪れた。女性は「今日は特別な日になりました」と語った。2人は前日、68年ぶりに再会を果たした。

 女性は、広島市安佐北区の西原幸恵(さちえ)さん(67)。1945年8月6日朝、母の胎内で被爆し、その日の夜に生まれた。男性は当時15歳だった、横浜市鶴見区の斎藤孝さん(83)。爆心地から約3キロにある動員先の工場で被爆。無数の死を目の当たりにしたとき、西原さんの産声に励まされた。

 斎藤さんは当時、広島県立広島二中の生徒。工場で機械の下敷きになった。なんとか逃げ出し、火の海のなか、自宅をめざした。10時間かけ、約6キロ離れた自宅にたどり着くと夜になっていた。家の周りにも遺体が折り重なっていた。

 隣家に住む西原さんの母のお産が始まったのは、まもなくだった。斎藤さんの母すみえさんら近所の主婦たちが、焼けたトタンで囲いを作り、お湯を沸かした。産婆役として西原さんを取り上げたのは、すみえさんだった。自らも出産を控え、負傷もしていた。

 「おぎゃあ、おぎゃあ」

 深夜、かん高い産声が響いた。産屋代わりのトタン板に赤々と街を燃やす炎が反射していた。西原さんの母は手探りでわが子の顔をなでた。「地獄の中で見た一筋の希望」。斎藤さんはその光景が忘れられない。

 斎藤さん一家はその秋、被爆地を離れて横浜市へ転居した。すみえさんは身ごもっていた斎藤さんの弟を産んだ2カ月半後、46年2月に原爆症で亡くなった。会社員となった斎藤さんも10年後、被爆による白血球減少症で倒れた。入退院を繰り返し、前途を悲観して自殺を図ったこともある。

 「原爆から逃げてはいけない」。入院先でそう考えたのはあの産声を思い出したからだ。「赤ちゃんが安心して暮らせる世界をつくる責任がある」

 自らの体験を手記にまとめ、知人が英訳して国連本部にも届けた。若者に毎年、被爆体験を語り続けてきた。赤ちゃんの行方は気がかりだったが、再会はあきらめかけていた。

 闘病を重ねて83歳を迎えた今年、「これが最後」との思いで、原爆の日に広島を訪ねることにした。

 「赤ちゃんと会えますよ」。斎藤さんのもとに今月、広島の知人吉見信子さん(79)から「捜していた赤ちゃんは西原さんだった」との知らせが入った。

 西原さんの戸籍上の誕生日は8月7日。20歳のとき、父は「本当は6日夜に生まれたが、大勢の人の命日を誕生日にしたくなかった」と明かした。両親は「幸恵」の名に「幸せに恵まれてほしい」との願いを込めていた。

 「私には被爆の記憶がない。原爆のことは何も語れないんです」。再会後、こう漏らした西原さんを、斎藤さんは励ました。「僕の命はあとわずか。最も若い被爆者としてバトンを受け取ってほしい」

 西原さんは6日、被爆した亡き両親や夫への思いを胸に、原爆死没者慰霊碑に手を合わせた。「引き継ぐ自信はまだないけれど、8月6日に命を与えられた意味を考え続けたい」

 (佐々木敦斗、武田肇)

 ●響く鐘、祖父の思い込め 被爆3世、32歳女性
 亡くなった被爆者に黙とうが捧げられるなか、被爆3世の佐古田史織さん(32)=広島市安佐北区=は、平和の鐘を突いた。腕には、被爆した祖父母の思いを込めた念珠をつけた。

 3年前に82歳で亡くなった祖父義弘さんの命日だった4日、祖母初江さん(82)から特製の念珠を渡された。史織さんは法要で「思いを受けて鐘を突きます」と手を合わせた。

 史織さんは、義弘さんが生前、外国の戦争を伝えるニュースを見ると「戦争や原爆の苦しみを子どもに味わわせてはいけない」と嘆いていた姿が忘れられない。しかし、どんな被爆体験をしたかを詳しく聞けないまま、祖父は逝った。

 鐘を突くことが決まった6月下旬。「大役を果たす自信がない」と感じ、祖母に祖父の体験を尋ねた。被爆した翌日にも「お国のために」と、勤務先の軍需工場へ向かったと聞いた。

 「戦争の不条理さ、今の時代に不自由なく暮らせる幸せを実感した」。史織さんは義弘さんの祈りを胸に丁寧に鐘を突いた。

 (山本恭介)

 ●慰霊碑、妻へ祈り 闘病の姿を映像作品に、86歳
 遺族の代表らが、この1年に死亡が確認された被爆者の名簿を原爆死没者慰霊碑に奉納した。昨年、妻を失ったアマチュア映像作家・川本昭人さん(86)=広島市佐伯区=は、目を閉じて、妻の名が納められた慰霊碑に手を合わせた。  妻キヨ子さんは祇園町(現・安佐南区)の軍需工場で被爆した。8年後、工場で知り合った川本さんと結婚。2人の息子に恵まれたが、1968年に甲状腺がんと宣告された。

 ホームビデオで子どもの成長を撮っていた川本さんはこの頃から、キヨ子さんにもカメラを向け始めた。慢性的に頭が痛む。だるくて動けない……。妻は「いつまでも原爆の影がまとわりつく」と嘆いた。

 5年前、撮りためた映像を約2時間のドキュメンタリー「妻の貌(かお)」にまとめた。原爆症に苦しむ妻の日常を丹念に追った作品は、平和・協同ジャーナリスト基金賞の映像部門審査委員大賞に選ばれた。

 キヨ子さんは昨年9月、川本さんの就寝後、1人で入ったお風呂でおぼれて亡くなった。初めて迎える原爆の日を前に、若い頃の妻の映像を見た。「家内の人生は充実していたな」と思えた。妻の死に落ち込んでいたが、いまはこう考えている。「被爆者の苦しみや思いを映像で伝えていきたい」

 (中崎太郎)

 ◆ようやく、この日に来られた 米の映画監督、初めて式典に
 日本で生まれ育った米国人映画監督、リンダ・ホーグランドさんは、原爆の日の広島を初めて訪れ、平和記念式典に参加した。「ようやくこの日にここに来られた、という気持ち」

 日本の小学校の授業で原爆投下の歴史を教わった時、米国の責任を自分が負わされたように感じ、級友たちの視線が重かった。その時の記憶を胸に映像作家となってからは、特攻隊や安全保障条約など日米両国の関係を問いかける作品の制作を手がけてきた。

 被爆者の遺品を題材にした映画「ひろしま」が今夏、大阪、広島などで公開されている。広島の観客から様々な体験や感想を寄せられている。「やっと居場所ができた」と感じた。

 それでも式典では「私は着席する立場にない」と語り、会場の片隅で見守った。「歴史を直視しない米国に『明日はあなたかもしれない』と言いたい」

 (宮崎園子)

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