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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 原爆孤児として生きて 「原爆の子 」小島純也さんの「その後」 (2013年8月7日 朝刊)

写真 昔の写真を見て、被爆前の生活を思い出す小島純也さん=東京都渋谷区

 まもなく刊行される「『原爆の子』その後」には、戦後を生き抜いた執筆者たちの平和への思いが満ちている。被爆後の生活を思い出すのがつらく、「それでも書き残さねば」と自分を鼓舞しながら原稿を仕上げた人もいた。

 東京都渋谷区在住の小島純也さん(73)は「原爆の子」に作文が載った1人。6日朝、自宅で広島市の平和記念式典のテレビ中継に見入った。

 松井一実市長が平和宣言を読み上げる中で、ある原爆孤児の苦しみに言及すると、思わず涙を流した。  「私もそうだった……」

 生後10カ月で母が病死。5歳のときに原爆で父、祖父母を失い、孤児となり、叔父夫婦に引き取られた。

 《やさしいお父さん、お母さんが、おられなくなってからというものは、不幸なものです》
 小学6年生のときに学校で書いた作文が、本に先行して雑誌「世界」で紹介された。学校で掲載誌をもらい、ほめられると思って持ち帰ったところ、叔父夫婦の対応は冷淡だった。

 「雑誌を仏壇に供えたら、1週間後になくなっていました。叔父の後妻に捨てられたんです。育てる側にすれば『不幸です』と書かれたのが気に入らなかったのでしょう」

 遠足の弁当にはみそを塗った麦ご飯しか与えられず、友だちに隠れて食べた。運動会も独りぼっち。天井裏で寝起きさせられ、鉛筆も衣服も小遣いももらえなかった。「死んで両親のところへ行きたい。『どうやって死のうか』といつも考えていました」

 中学卒業後に印鑑を彫る技術を身につけ、「広島から逃げるように」リンゴ箱一つ抱えて上京した。「中卒の原爆孤児が夢を追うことなんてできません。食うために必死でハンコ屋の技術を身につけたんです」

 30歳のときに結婚し、2人の子どもに恵まれた。

 30年近く前、上の子が10歳くらいだったとき、家族で名作漫画「はだしのゲン」のアニメを見た。

 「ゲンの境遇があまりにも自分に似ていて、子どもの前で大泣きしたのを覚えています」

 「はだしのゲン」を描いた漫画家中沢啓治さんも「原爆の子」に作文が載った1人だ。その中沢さんも、「原爆の子」を映画化した新藤兼人監督も昨年に死去。「原爆の子」に作文が載った仲間も一人また一人と亡くなっていく。

 長年支えてくれた妻も5年前に先立ち、いま、2Kの賃貸アパートで独り暮らし。年金はない。

 《いいんです、貧乏でも。わたしなりのプライドはもっています。弱い立場の人の気持ちは少しはわかるつもりです》

 「『原爆の子』その後」にはそう書いた。

 「原爆孤児として生きる私も無念だが、私を残して亡くなった父たちこそ無念だったと思う。父の代弁者のつもりで書きました」

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