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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 山口仙二さんの志、世代超え 継承、重いバトン きょう長崎原爆の日 (2013年8月9日 朝刊)

 長崎は9日、米国による原爆投下から68年となる原爆の日を迎える。反核運動の象徴だった被爆者、山口仙二さん=キーワード=が亡くなって1カ月。被爆体験の継承という課題に向き合い、被爆地には大きな喪失感と焦りがある。生前、仙二さんに出会った3世代を訪ねた。

 爆心地から700メートルで被爆。奇跡的に助かり、かつて「原爆乙女」とよばれた明坂尚子さん(77)は長崎市内で独り、暮らしていた。1956年、仙二さんらと「長崎原爆被災者協議会」の設立を呼びかけた。被爆者運動の中心を担っていく被災協。仙二さんが亡くなり、12人いた呼びかけ人は一人きりになった。

 「仙ちゃんはやさしい人だった。みんな、パタパタと死んでいく。私だってあと何年かな」。7月末、消え入りそうな声で話した。

 熱線でのどをやかれ、十分な呼吸はいまもできない。「書かなければ」。この数年、被爆体験を残したいと友人に繰り返し語っている。でも、筆は進まない。公の場で体験を語ることもない。

 《二世の会をつくられたのは大変だったと思います、がんばりましょう ありがとうございました》

 昨年6月22日消印の仙二さん直筆の手紙。被災協に初めて被爆2世の会ができたことに感謝し、励ます言葉が並ぶ。柿田富美枝さん(59)が受け取った。被災協で唯一の被爆2世職員。20年前、仙二さんに誘われたのがきっかけだった。

 手紙を受け取った2カ月後、ビデオカメラを手に療養中の仙二さんを訪ねた。「被爆体験を聞かせてほしい」「被爆2世へのメッセージを」。初めてそう伝えるつもりだったが、すでにかなわない状態だった。

 死去後、2世の会でこれからの活動を話し合った。「被爆70年に向けて被爆体験の聞き取りを始める」。すぐに意見は一致した。

 「早く聞いておけばという後悔ばかりで情けない。限られた時間、できることをやっていく」

 東京の大手広告会社に勤務する鳥巣智行さん(30)は、仙二さんとの一度きりの出会いを反芻(はんすう)する。亡くなった祖母も被爆者だが、「被爆者のいない未来を、今回ほどリアリティーを持って感じたことはない」。

 高校時代、「目立ちたい一心」で、核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける「高校生1万人署名活動」を経験。千葉大進学後、知人の勧めで仙二さんを訪ねた。若い世代への希望をなんども語る被爆者に初めて出会った。

 デザイン工学に没頭するなか、自分にしかできないことをさがし、原爆と向き合う。

 いま、被爆体験を現在の町並みに重ね合わせて学べるサイト「ナガサキ・アーカイブ」に取り組む。パソコンには、やさしくほほえむ仙二さんの写真がある。10年前に撮らせてもらった一枚だ。このまなざしに、自分の原点があると思う。

 「継承、というとハードルが高い。でも、被爆者の思いを共有することならきっとできる」

 (木村司)

 ◆14歳で被爆、国連で演説(キーワード)
 <山口仙二さん> 14歳のとき、学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆。爆心地の北1・1キロ。上半身に重いやけどを負い、長く生死の境をさまよった。

 1955年に、原爆の後遺症や差別に苦しむ人たちをつなぐ「長崎原爆青年の会」を結成。「長崎原爆乙女の会」と合流し、56年に「長崎原爆青年乙女の会」をつくった。さらに、その後の被爆者運動の中心となる「長崎原爆被災者協議会(被災協)」設立を呼びかけた。日本被団協代表委員や、長崎被災協会長を歴任。

 82年、米ニューヨークの国連本部で被爆者として初めて演説。自らのケロイドの写真を掲げ、「ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ」と訴えた。今年7月6日、入院先で息をひきとった。82歳だった。

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