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紙面から from Asahi Shimbun

【2013年の夏】
 被爆国の責務問う 「核廃絶、先頭に立て」 長崎原爆の日「平和への誓い」 (2013年8月9日 夕刊)

 原爆投下から68年。「唯一の被爆国」は、被爆者の思いから遠ざかろうとしているのではないか。被爆地・長崎から「原点に返れ」との声が次々に上がった。

 「私たち長崎の被爆者は、憤りを禁ずることができません」

 築城(ついき)昭平さん(86)は平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた。4月の核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える共同声明に参加しなかった日本政府を批判し、こう訴えた。「世界で唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶の先頭に立つ義務がある」

 18歳のとき、爆心地から1・8キロの学生寮で被爆。2カ月も高熱と血便が続き、一時は死を覚悟したという。

 中学の教員だった1974年、教員仲間4人とともに、核保有国が核実験をするたびに爆心地公園で座りこむ抗議を始めた。座りこみはこれまでに400回近くに及び、参加者は延べ1万人を超えた。

 90年代にチェルノブイリ周辺を視察し、早くから反原発の立場をとってきた。放射能の怖さを身をもって知るからこそ、福島の原発事故もひとごととは思えない。誓いの中で「事故の収束もみえないのに再稼働の動きがあるとともに、原発を輸出しようとしています」と、安倍政権の姿勢を批判した。

 首相本人を前に、批判的な言葉を読むことには、ためらいも感じたが、「首相が来るからこそ被爆者としての気持ちを言わんといかん」と考え直したという。

 「日本は負けるんじゃないか」。長崎が焼け野原になった68年前。友人と臨時の治療所に避難する際、声を潜めて話した。「大きな声で言えば、憲兵がくると思った。周りは廃虚で憲兵なんていないのにね」

 首相の考えと違う内容でも、思っていることを公式の場で大きな声で言える自由。築城さんは「戦前は言論の自由がなく、国が戦争を始めるのを国民は防げなかった。守らないといけない憲法の条文は、9条だけじゃない」と感じる。

 だから、平和への誓いで被爆者や戦争体験者に呼びかけた。「いま、平和憲法が変えられようとしています。戦争の時代に逆戻りしないよう、あなたの体験を伝えてください」(菊池文隆)

 ◆意志、受け継ぎ伝える 「平和な未来につながると信じて」「つらかった。けど、知っとかんと」
 「核兵器のない平和な未来になりますように」。9日朝、長崎大非常勤職員の斉藤佑布子さん(28)は出勤前に、平和公園で手を合わせた。

 スイス・ジュネーブで今春に開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会に合わせ、長崎市などが現地に派遣した8人のユース代表団の一人。自分より若い被爆2世は、2歳下の弟しか知らないという、2世の最後の世代だ。

 準備委では、核兵器の非人道性を訴える共同声明が注目を集めた。斉藤さんらは田上富久・長崎市長、松井一実・広島市長と一緒に日本政府の代表団を訪問。「被爆国として参加の判断を」「核を使わないことが、人類の利益になる」と、声明への参加を求めた。

 だが、政府側は「決断もいいが、裏側には反対する人や不利益を被る人もいる」と回答。結局、声明には80カ国が賛同したが、日本政府は加わらなかった。

 斉藤さんは「被爆地が世界に訴える核廃絶の思いと矛盾するような行動。もどかしく感じた」という。

 ジュネーブでは現地に住む日本人やスイス人の子どもたちに平和教育をした。原爆の事実を知った子どもたちの驚きの表情に、伝える側の充実感を感じた。一人でも多くの子どもたちに平和について話したい。教員をめざして勉強を再開した。「小さな種でもまいていけば、平和な未来につながると信じたい」

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 長崎県諫早市の江頭直美さん(69)は9日朝、長崎市の城山小学校で行われた平和祈念式に参加。子どもたちが発表する「平和の願い」をうなずきながら聞き、「原爆を語り継ぐことについて背中を押されたような気がする」と話した。

 爆心地の西500メートルの同小(当時は城山国民学校)で被爆した。当時1歳。同校の教諭だった母千代子さんが初めて直美さんを連れて出勤した日だった。

 千代子さんは戦後、教師をしながら被爆体験を語り続け、「原爆先生」と呼ばれた。だが、2003年に他界するまで、娘には、その体験を直接語ろうとしなかった。「自分の苦しい、悲しい思いを知らせずに育てたかったのでは」。直美さんは、推しはかる。

 この7月、思いがけず、被爆体験を語る母の肉声を生まれて初めて聞いた。城山小の元教諭が送ってくれたテープ。1985年、同小に招かれた千代子さんの証言が録音されていた。

 70代半ばになっていた千代子さんは、時折感情を高ぶらせ、家族を失う場面ではすすり泣いていた。被爆の記憶がない直美さんも、聞きながら涙を流した。「きつかった。でも、知っとかんといかん」

 母の記憶は娘に受け継がれた。そして、城山小に残る被爆校舎は今月、国の文化財に登録された。「いつか私が話さんといかん時が来たら、戦争のない国にしてほしいという母の思いを、しっかりと伝えたい」(斎藤靖史)

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