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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 被爆69年の夏)敵から友へ 生き抜いた父、元米兵と握手 (2014年7月24日 朝刊)

写真 懐中時計の鎖を手に語り合う章子さん(左から2人目)と進示さん(同3人目)=6月25日、広島市、青山芳久撮影

 「きのうの敵は、あしたの友になれます。人種、言葉、立場が違っても、みんなで許しあえれば、恐ろしい戦争はふせげます」。米国のサンディエゴに住む美甘(みかも)章子さん(52)は先月下旬、広島市の市立神崎小学校で約140人の子どもたちにやさしい言葉を使って語りかけた。

 広島大学を卒業後、渡米して心理学を学んだ章子さん。臨床心理医としての話のテーマは「許す心とヒロシマ」だった。真剣な表情で耳を傾ける子どもたちに対して、章子さんは4年前からサンディエゴで開いている平和式典への思いを伝えた。「世界の安全を守るため、できることをしたいのです」。その言葉は、19歳で被爆し、広島市で暮らす父の進示さん(88)にも向けられていた。

 原爆が落ちた時、巨大な火の玉が見え、熱湯をバケツで頭からかけられたような熱さに全身が襲われたという進示さん。自宅の焼け跡で、進示さんの父、章子さんから見て祖父にあたる福一さん(当時63)の懐中時計を見つけたのは被爆から約3カ月後だった。原爆で家族も家も失った進示さんにとって、唯一の形見となった。

 核兵器は一瞬にして街を破壊し、たくさんの人を殺害し、残された人を放射能の恐怖にさらす――。20年後の1965年、進示さんは核廃絶と平和の大切さを訴えるため、懐中時計を広島平和記念資料館(広島市中区)に寄贈。懐中時計は83年、原爆の熱線で変形したビール瓶や学生服などとともに、展示用として国連本部(米ニューヨーク)に貸し出された。進示さんの手元には、懐中時計の鎖と鍵が残った。

 6年後の89年5月。国連を訪れた際、懐中時計がなくなっていることに偶然気づいた章子さんは激しい憤りを感じた。ところが、進示さんは穏やかにつぶやいたという。「どんなに悔しく、つらく、腹が立っても許しなさい。与えられた試練から、何を学び取るかが大事なんだよ」

 それから16年の歳月が流れた2005年の夏。章子さんと進示さんはサンディエゴの海岸にいた。章子さんがサーフィンを学んでいる男性が通りかかった。進示さんもサーフィンを教えてもらい、79歳で初めて太平洋の波に乗った。

 「ヒロシマを生き抜いた人とサーフィンをできるなんて光栄」と男性は言い、章子さんと進示さんを自宅に招待。2人が行くと、男性の父で元軍人のミルトン・ユージーン・ウィリスさんが現れた。進示さんと同じ当時79歳。進示さんとウィリスさんは意気投合し、杯を交わし、別れ際には固い握手で結ばれた。

 やっと和解できた――。進示さんの表情が和らいだこの日は8月15日の終戦記念日。被爆から60年が過ぎていた。

 ■娘、日米結び平和の鐘
 被爆2世として何ができるだろうか。自らに問うた章子さん。進示さんと過ごした夏から5年後の2010年8月6日(現地時間)、在サンディエゴ日本国名誉総領事らと連携し、平和を願う式典を開いた。

 黙とうの後、地元の子どもたちが折り鶴を手向けて献花。住民と被爆者がサンディエゴの姉妹都市・横浜市から贈られた鐘を順番についていく。当初の参加者は30人ほどだったが、章子さんが「許すということを学び、日米はいま、友です」と語った昨年の式典は約100人まで増えた。

 広島市立神崎小での講演から2日後の先月25日、章子さんは進示さんの自宅にいた。そばには米国人の夫との間にできた長男のアンドリュー・丈示(じょうじ)・フロレーズさん(24)、長女の聖羅(せいら)さん(27)。被爆当時を語る進示さんの話に聴き入った。

 アンドリューさんは「日米の血を受け継ぐ自分にしかできない使命を尽くしたい」、聖羅さんは「おじいさんが苦しみながらも生きぬいたから、今の自分がいる。一人でも多くの人にその経験が伝わってほしい」と話す。章子さんは、その姿をうれしそうに見つめた。

 「先の大戦で多くの犠牲者が出た太平洋をまたぎ、日米で同時に平和を願うことに意味があります。再び核戦争を起こさないよう、伝えていく機会にしたい」と章子さん。まなざしの先には、被爆69年の来月6日(日本時間)にサンディエゴで開く平和式典があった。

     ◇

 今月、章子さんが進示さんの被爆体験や人生をまとめた「8時15分 ヒロシマで生きぬいて許す心」の日本語版(講談社エディトリアル)が自費出版された。映画化の話も進んでいるという。
(岡本玄)

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