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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 被爆69年の夏)21言語、駆け巡るゲン (2014年7月27日 朝刊)

写真 様々な言語に訳された「はだしのゲン」と浅妻南海江さん=金沢市

写真 金松伊さん

写真 慰霊碑に千羽鶴を供えて祈る中学生ら=26日、大阪市東住吉区、伊藤進之介撮影

原爆をめぐって何が起きたのか。子どもたちに、どのように伝えていけばいいのか。69年前の出来事を見つめ、さまざまな形で平和と不戦、核のない世界をめざす人たちがこの夏と向き合っている。

 原爆のむごさ、平和の尊さが描かれた漫画「はだしのゲン」。自らの被爆体験をもとにした中沢啓治さん(2012年死去)は「いろんな国の子にゲンと会ってほしい」と願っていた。その思いを受けた国内外の人たちが翻訳を手がけ、20を超える言語で紹介されるようになっている。

 ●中沢さんが後押し
 英語、スペイン語、ドイツ語、ポーランド語、フランス語、タイ語。浅妻南海江(なみえ)さん(71)=金沢市=の自宅の書棚には、世界各地で出版された「はだしのゲン」の翻訳本が並ぶ。

 浅妻さんはゲンを世界に広める翻訳グループ「プロジェクト・ゲン」の代表。国内外の同志から情報が寄せられ、今年は「中国語版の翻訳が終わった」との知らせが届いた。広島に留学経験のあるエジプトの大学教授は「アラビア語版を近く出す」と連絡してきた。

 「ゲンのためなら、自由にやってください」。浅妻さんらの翻訳への取り組みを後押ししたのは、生前の中沢さんの言葉だった。ロシア語版(全10巻)は浅妻さん自身が01年に完成。知人のロシア人女性とのやり取りで「被爆の実態が知られていない」と感じ、1995年から翻訳を始めた。400セットをロシア各地の学校などに贈り、今は改訂作業を進めている。

 英語版(同)は浅妻さん宅に仲間が集まり、約10年かけて09年にできた。原作と同じ10巻の翻訳本がそろったのは7言語。1巻でも訳されたものを含めると、その数は21言語に上る。

 「子孫が核戦争の恐怖を体験しないため、悲劇の記憶を世代から世代に伝えていく」(ウクライナの女子大学生)▽「核はエネルギーとして安全ではなく、使うべき武器でもないと確信した」(米国人の女性)……。学校や町の図書館で翻訳版を偶然手にしたという海外の若者から感想文が届く浅妻さん。12年12月には、医師らと「はだしのゲンをひろめる会」と名づけたNPOを立ち上げた。

 設立総会では、闘病中だった中沢さんからメッセージが寄せられた。「ゲンは地球上をはだしでかけめぐり、愚かな戦争と核兵器を無くすためにガンバル決心です」。このあと、中沢さんは急逝した。  浅妻さんはマーシャル諸島にも翻訳本を贈る。米国の水爆実験で放射能被害を受けた地だ。中沢さんの思いを継ぎ、「ゲンと世界の子どもの出会い」に力を尽くすつもりだという。

 ●自叙伝の翻訳本も
 在日コリアン2世の金松伊(キムソンイ)さん(67)=大阪府東大阪市=は1月、中沢さんの遺作となった自叙伝「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社)の翻訳本を韓国で出版した。

 金さんが02年までに全巻を翻訳した韓国語版は韓国での販売が2万セットを超え、ソウルの高校では授業で使われた。一方で、金さんはゲンの体験を架空の物語と受けとめている人がいると知り、ショックを受けた。ゲンは中沢さん自身だと伝えたい――。そう思い、自叙伝を翻訳した。

 中沢さんは生前、韓国語版を「朴(ぼく)さんに見せてあげたい」と言っていた。朴さんは作品中に登場する実在のモデルで、帰国事業で北朝鮮に渡ったという。金さんは「ゲンを朴さんに会わせたい」と考え、関係者を通じて朴さん一家の消息をつかもうとしている。(中野晃)

 ◆まだまだ頑張って
 <中沢啓治さんの妻ミサヨさん(71)の話> 原爆に対する夫の執念はすごく、ずっと原爆のことを考えていた。人に頼らずに調べ、覚悟を決めてコツコツと突きつめて描いた。そんなゲンを世界の子どもにも読んでもらいたい、そして、戦争をなくしたい、というのが夫の思いだった。戦争がなくなるまで、ゲンにはまだまだ頑張ってもらいたい。

 ◆キーワード  <はだしのゲン>
 広島で被爆した中沢啓治さんが1973年、「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を始めた自伝的漫画。掲載誌を変えながら、85年に完結。作品を原作にした実写やアニメ映画、テレビドラマもある。一方、「描写が暴力的」として松江市教育委員会が2012年12月から昨夏まで学校の図書室での閲覧を制限。大阪府泉佐野市教委も学校の図書室から一時回収し、論議を呼んだ。

世界に 次代に 伝え続ける
 ■模擬原爆、絶たれた命 大阪で追悼式
 広島、長崎への原爆投下前、米軍は日本各地で「模擬原爆」を試していた。69年前の7月26日に落とされた大阪市東住吉区では、80人が死傷した記憶を受け継ごうと、地元の小中学生が追悼式に加わった。

 模擬原爆は1945年7〜8月、新潟県長岡市、静岡県焼津市、大津市、京都府舞鶴市などに計約50発が落とされた。カボチャのような形から「パンプキン」と呼ばれ、長崎に投下された原爆とほぼ同じ直径約1.5メートル、長さ3.3メートル、重さ4.5トンだった。

 通常火薬が詰められ、本物の原爆を落とすB29爆撃機の操縦士らに経験を積ませる▽目標地点に正確に投下する▽爆風から急旋回する――といった目的があったとされている。だが、その「訓練」で400人余りの命が奪われた。

 大阪の東住吉に模擬原爆が落とされたのは、7月26日午前9時26分。7人が死亡し、73人が重軽傷を負った。約200人が参加した26日の追悼のつどいには、姉の親友を亡くした龍野繁子さん(89)が東住吉区田辺1丁目にある慰霊碑の前で体験を語った。

 龍野さんは当時、国民学校の教員。模擬原爆が落とされた時、学徒動員によってボタン工場に来ていた子どもたちと一緒にいた。爆心から約150メートル。爆風で巨大な石が吹き飛ばされてきたものの、隣の部屋にいて助かったという。

 龍野さんは「これから私にできることは何だろう、と考えている一方、実行に移せる体力はもうありません」と言い、つどいに参加した小中学生にこう語りかけた。「あなたたちに託したい。平和についてしっかり考え、良い時代をつくってください

 大阪市立田辺中3年の保田海(うみ)さん(15)は「今も戦争をしている国は多く、日本もその危機にさらされるかも。平和を担う責任を感じます」と話していた。
(花房吾早子)

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