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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 遺す)原爆、私は無力だった (2014年8月1日 朝刊)

モハメド・ベジャウィ氏 90歳になった今も患者と向き合う田口正秋さん=福岡市南区、福岡亜純撮影 モハメド・ベジャウィ氏=8日、パリ近郊、マリー・ギトン撮影

モハメド・ベジャウィ氏 馬場すづ子さんは出征した夫への寄せ書きが並ぶ日章旗を今も大切にしている=長崎県諫早市、山本恭介撮影

モハメド・ベジャウィ氏 パソコンに向かい、1文字ずつ丁寧に打ち込む内田千寿子さん=広島県府中市、青山芳久撮影

■洞窟の救護所、尽きた薬
 ●軍医
 「おかげで長生きできとります。けさもラジオ体操したけん」。6畳ほどの診察室。肩が痛いと言う男性(81)の表情が和らいでいった。白衣をはおった田口正秋(90)はほほ笑み、男性の胸に聴診器をあてた。
 真夏の日差しが照りつける先月23日の朝。69年前とほぼ同じ時刻。田口は広島から約200キロ離れた福岡で命と向き合う。消せない思いを胸にしまいながら。――あの時、あまりに多くの命を救えなかった――。

 1945年8月6日午前8時15分。米軍のB29爆撃機が投下した原爆が広島で炸裂(さくれつ)した。軍医になったばかりの田口は、爆心地から約3キロ離れた陸軍兵器補給廠(しょう)の食堂にいた。見たこともない閃光(せんこう)と爆風、熱線。とっさに身を伏せ、テーブルの下へ。窓ガラスは全て割れ、食堂も倒れかかったが、床との間にできたわずかな空間で助かった。

 「洞窟へ」。多くのけが人が出たと直感した田口は補給廠から約500メートル西の比治山(ひじやま)へ走った。山といっても標高70メートルほどの小高い丘で、斜面には緊急救護所となる洞窟(長さ50メートル、幅10メートル、高さ2メートル)が掘られていた。穴には10人ほどの看護婦と衛生兵がいたが、医者は田口だけだった。

 手を引き合い、急ごしらえの杖にすがりながら被爆者が丘を上がってきた。髪の毛は焦げ、衣服はぼろぼろ。赤黒く腫れた唇、つぶれた目。皮膚は焼け、腕からぶらりと下がっていた。地獄だった。

 洞窟はすぐに被爆した人で埋まった。「子どもが暴れているんじゃ」「ぐったりした母をみてくれ」。負傷者の血で染まった白衣のまま、田口は裸電球が照らす洞窟内を駆け回った。

]  油薬を綿の玉につけ、ピンセットでやけどの患部に塗る。丁寧な治療は最初だけ。手が回らず、薬もなくなった。炊事班の食用油を両手で傷に塗りたくった。処置をした人は補給廠の倉庫にトラックで運んだ。

 翌7日の朝。倉庫へ行くと、セーラー服を着た女の子が水道の蛇口付近で死んでいた。水を求めたのか、顔にはひどいやけどをしていた。その近くには息絶えた母親の乳房をまさぐりながら泣く乳児がいた。自分が手当てをした人だった。

 約1300人。田口が3日間、1人で治療した人の数だ。手帳に亡くなった人を記していたが、60人を超えたところで止まった。

 終戦からしばらくして、爆弾が原爆という核兵器だと知った。1発で何十万もの市民を殺傷し、医療施設を破壊する。放射線は助かった人の体をむしばむ。田口も被爆から約1カ月後、40度の高熱と体にできた斑点で苦しんだ。「核が使われると、治療なんてできない」。田口は感じた。

 被爆から2年半後。北九州の病院で外科医として勤め始め、66年に福岡で開業した。それから48年。90歳になった今も毎朝、白衣に袖を通す。「あの日を生き延びた私にすべきことがあるなら、医師として人を救うことでしょう」

■傷口にウジ 重なる遺体
 ●看護婦
 ナイチンゲールのような従軍看護婦になるつもりだった。だが、原爆には夢も理想も無力だった。

 原爆投下時、内田千寿子(91)は郷里の広島県有磨村(現・福山市)にいた。広島赤十字病院で臨時救護看護婦の訓練を終え、待機中だった。5日後に招集がかかり、爆心地から約1・6キロ離れた病院へ。玄関ホールには、負傷した被爆者が並べられていた。

 「とっさに顔を背けた。見たくないとの思いで」。先月15日、内田はまなざしを遠くに向けて明かした。

 病院には3週間で延べ約3万1千人が運び込まれたが、包帯も薬も少ない。やけどをした患者から「肩がかゆい」と言われ、「治りかけでしょう」と声をかけた。傷口を見ると、無数のウジがわいていた。当時は原爆が落とされたとは知らず、どう治療していいか、みんな分からなかった。

 「戦争が終わったのに、僕らはなんで死ななくちゃならんのか」。終戦の日の8月15日、ある患者が言った。1カ月後、病院にいた患者の大半が死んだ。

 戦後も残留放射線による被爆に苦しみながら看護の道を歩み、今は広島市から約70キロ東の府中市に住む。被爆30年の75年から体験をつづる文集「地下水」は7月号で352号を数えた。「死んだ人々のため、残さないといけない」。使い込んだパソコンに1文字ずつ打ち込む。

 ●市民
 広島が被爆した3日後の8月9日午前11時2分、米軍は長崎市にも原爆を落とした。海と山に囲まれ、異国情緒あふれる街は一瞬にして焦土と化した。

 爆心地から20キロほど離れた長崎県諫早市にも多数の被爆者が運ばれてきた。だが、馬場すづ子(93)は言う。「何もできなかった」

 「長崎のけが人が来たけん!」。9日夕方、自治会長がメガホンで叫び、近くの旧制中学に毛布や食料を持ってくるよう求めた。出征した夫の帰りを2歳の娘と待つ身だった馬場。娘を実母に託して向かうと、諫早駅に着いた列車からリヤカーに乗せられた被爆者が続々と運び込まれていた。身ごもった女性もいた。

 血だらけで寝かされた被爆者が講堂を埋めた。治療を手伝おうにも薬はない。渡された黒い液体を筆で傷に塗ったり、わいてくるウジを割り箸で取り除いたり……。外の蛇口の周りには水を求めながら死んだ人たちが折り重なっていた。

 「軽傷」の人を任されたはずだったが、次々と息を引き取った。救えない命ばかり。講堂に詰めた約2週間で、自らも救護中に被爆していた。

 「戦争も、原爆もあわれなだけ。絶対に繰り返しちゃだめ」=敬称略

      ◇

 広島と長崎への原爆投下から69年。当時、成人だった高齢被爆者のメッセージに耳を傾け、「核の非人道性」と平和について考えていく。
 (この連載は山本恭介、雨宮徹、編集委員・伊藤智章、奥村智司、佐藤達弥、花房吾早子が担当します)

◆中1の弟、最期に「ありがとう」 被爆者の記憶
 (今の居住地、被爆地、氏名・年齢、当時の職業・肩書)

 ■東京都目黒区(広島) 西光子さん(91) 主婦  中学1年の弟が顔に大やけどをし、両手の内側の皮膚が垂れ下がった。被爆から3日たった朝。なでていた足がだんだん冷たくなり、祖母、母、私の名をつぶやきながら「ありがとう」と言い、息を引き取った。

 ■横浜市港北区(広島) 西冨房江さん(89) 陸軍事務職員  やけどは軽かった父(当時68)が被爆した夜から発熱。近所からもらったイチゴをジュースにして飲ませると「あー、うまかった」。それが最後のやりとりになった。

 ■広島県三原市(広島) 中谷マサヨさん(90) 看護婦  病院の廊下が負傷者でいっぱいに。上司に「もう助からないから、せめて水を飲ませてあげなさい」と言われ、やかんで水をあげて回った。やかんをつかんで離さない人や、うまく飲めずに亡くなった人もいた。翌朝、ほとんどの人が死んだ。

 ■山口県岩国市(広島) 広本政子さん(89) 銀行員  18歳の妹が背中じゅうにやけどした。ほとんど手当てはできず、「痛い、痛い」と言って寝ているだけ。首の後ろに1センチくらいのウジが10匹くらいうようよとわいていた。ろくにものも言わず、食べることもできなかった。亡くなった8月25日、「お姉ちゃんありがとうね」と言われたのを覚えている。

 ■福岡県古賀市(長崎) 芦塚ハルノさん(92) 看護婦  負傷者がどんどんトラックで運び込まれた。ほとんどは死んでいて、その間を走り回って生きている人を探した。着物もぼろぼろで、男女の区別がつかなかった。

 ◆キーワード  <広島、長崎に落とされた原子爆弾>
 広島にはウラン235、長崎にはプルトニウム239を使った原爆が投下された。1945年12月までの死者は広島で約14万人、長崎で約7万4千人と推定される。長崎型の威力は広島型の約1・5倍だったが、爆心地が中心部から少し北に離れ、山に囲まれた地形が爆風や熱線を遮ったとみられている。被爆形態は、爆心地付近にいた「直接被爆」▽原爆投下直後の広島、長崎両市に入った「入市被爆」▽負傷者の治療や遺体処理などにあたった「救護被爆」▽「胎内被爆」――がある。

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