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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 遺す)死体の山の街、今も消せぬ (2014年8月2日 朝刊)

モハメド・ベジャウィ氏 浦上川に向かい、祈りを捧げる河辺喜久子さん。そばで孫の香菜子さんが支えた=25日、長崎市、山本恭介撮影

 橋のたもとに男の子がいた。10歳くらいだろうか。立っているように見えた。でも、片足がない。服はすべて焼け焦げ、二つの眼球は飛び出していた。

 2日前の8月9日に炸裂(さくれつ)し、すさまじい熱線を放った爆弾を生き延びた人たちが通りかかった。息絶えている男の子を見やり、笑った。だれもが異常な精神状況におちいっていた。

 橋は長崎市の中心部を流れる浦上川にかかる。爆心地から600メートルほど。「大橋」と呼ばれていた。河辺喜久子(89)は69年間、橋で見た光景とともに生きていた。

 長崎に米軍が原爆を落とした時、河辺は20歳。爆心地から6キロほど離れた福田村(現・長崎市)の叔母宅で暮らし、家事を手伝っていた。叔母の1歳の娘を連れ帰った瞬間、閃光(せんこう)が目に飛び込んだ。轟音(ごうおん)とともに家のガラスが吹き飛んだ。

 親戚らの無事を確かめるため、市中心部へ。途中に渡った大橋で見かけたのが男の子だった。

   ■ □ ■

 道端では、若い男性が周辺から集めてきた木で組んだやぐらを焼いていた。炎の中には七つの死体があった。「家族だ」。親類宅をめざす河辺に、男性は無表情でつぶやいた。路上に放置された死体は夏の暑さで腐敗が進み、膨れた体からは血が噴き出していた。

 「死人の山だった街が、きれいになった。でも、つらい気持ちと悲惨な光景はそのまま」。河辺は言う。

 当時の大橋はもうない。河辺は先月25日、孫の香菜子(29)の車に乗せてもらい、近くにかかる別の橋に来た。「どうか、安らかに眠ってください」。手を合わせ、祈りを捧げた。

   ■ □ ■

 村岡与一(97)は1937年から中国の戦地を転々とした後、広島にあった陸軍施設へ。伍長だった69年前の8月6日朝、米軍との本土決戦に備えた「特攻兵器」をつくる作業を部下に指揮していた。兵器といっても、中古車から外したエンジンをベニヤ板製の船に取りつけたものだった。

 爆心から約2キロ。爆風で兵舎は倒れ、村岡の足にはりが落ちてきた。抜けだし、外に出ると、街も川も死体ばかりだった。戦場で死んでも、弔いの儀式はあった。中国では遺骨は白木の箱に入れられ、日本へ送られた。広島は違った。

 村岡たちはけがをした被爆者を集め、名前を聞いてまわった。ほとんどが生きることをあきらめたように「もう、いいです」としか言わない。その後、次々と死んでいった。腐臭が漂う中、遺体をトラックの荷台に積み込み、焼いた。

 戦後、村岡は故郷の長野市にもどり、米穀店を営んだ。「今日の聞き手は明日の語り手」。知り合いの被爆者の言葉を胸に被爆体験を証言してきた。だが、100歳を前に足が弱り、活動の場から遠ざかった。

 「一瞬で無差別に人を殺し、生き残っても放射線で苦しめる。こんな兵器がなぜ今もあるのか」。できることなら、村岡はもう一度語りたいと思っている。=敬称略

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