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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 遺す)被爆、妻にも言わなかった (2014年8月4日 朝刊)

被爆当時を思い起こす北尾茂男さん(左)と妻のミツヨさん=奈良市、森井英二郎撮影

夫は広島で被爆した。妻は長崎で被爆していた。だが、夫は44年間、被爆したことを隠し続けた。いわれのない「差別」を恐れて。

 北尾茂男(89)は69年前の8月6日朝、広島県西部の海軍潜水学校で訓練中だった。30キロ東の広島市上空で、キノコ雲が上がった。3日後、救援のために入った被爆地は死体ばかり。重ねられ、燃やされていた。

 翌月、故郷の京都に戻った北尾の髪の毛は全部抜けた。同じ頃、周囲では広島と長崎をめぐるうわさが広がっていた。「新型爆弾をうけた人の子どもは心身に悪い影響が出るらしい」。北尾は決めた。広島にいたことは隠そうと。

 仕事を求め、炭鉱で栄える長崎・崎戸(さきと)(現・長崎県西海市)へ。看護婦のミツヨ(85)と1949年に結婚した。北尾はミツヨから「原爆が落ちた時、長崎市にいた」と明かされた。しかし、北尾は言わなかった。子どもを産むことになるかもしれないミツヨに心配をかけたくなかった。

 一人息子を授かり、ミツヨは被爆者健康手帳を手にした。68年に関西へ移住。孫ができ、85年には息子一家と奈良市で暮らすようになった。「話してもええかな」。心が動き始めた。

 結婚してから44年。北尾はミツヨに言った。「手帳を取ろうと思う」。ミツヨは驚いたが、怒ることはなかった。ミツヨ自身も周囲の人に「あんたは被爆者やから、(子や孫の体が)おかしくなるんと違うか」と言われていた。

 2日の夕方。自宅近くの般若寺(はんにゃじ)で原爆犠牲者の追悼式があった。思うように歩けなくなった北尾の分も含め、ミツヨが祈りを捧げた。帰宅したミツヨを見つめ、北尾は思った。

 「人を無差別に殺傷し、後遺症で苦しめ、差別や偏見にもさらす。核兵器はなくなってほしい」

   ■ □ ■

 本田尚平(97)は被爆時28歳。広島の爆心地から2キロほど離れた陸軍船舶通信隊の兵舎にいた。熱線で顔がぱんぱんに腫れ、水を求めて倒れていく市民を前に何もできなかった。

 妻のキヨ(93)と幼い長女が待つ故郷の福島・会津若松に戻ってからは体がだるく、1年以上働けなかった。「原爆に遭った人は悪い病気を持ってっから」。近所に住む親から言われた子どもたちは長女に「原爆」というあだ名をつけ、いじめた。  本田は勤め先の資源開発会社でも被爆者であることを隠し続けた。長女も、戦後に生まれた次女も父の被爆を周囲に言わなかった。

 退職後、次女夫婦と相模原市で暮らすようになり、被爆者団体に入った。直後の1974年、東京電力福島第一原発を被爆者仲間と見学した。東電社員は「絶対、安全です」と胸を張った。だが、37年後。津波が押し寄せ、核は暴走した。
 日本は原爆の惨禍と未曽有の原発事故を忘れたかのように原発再稼働が近づく。「いったん過ちを犯せば取り返しがつかなくなるのに……」。本田は憂える。=敬称略

 ◆キーワード  <被爆の遺伝的影響> 被爆者を親とする被爆2世や、その子どもの3世への遺伝的影響は科学的に証明されていない。日米共同研究機関の放射線影響研究所(広島市、長崎市)はホームページで「原爆被爆者の子どもに臨床的、潜在的な影響を生じたという証拠は得られていない」と指摘。死亡率やがん発生率の追跡、DNA解析といった様々な点で調査を続けているとしている。

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