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紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える 遺す)忘れない、孫からひ孫へ (2014年8月5日 朝刊)

孫の小松裕衣さん(左から3人目)が約20年前にまとめた「おじいちゃんの原爆体験」を前に話す橋川武士さん(左)。長男の正治さん(右)やひ孫の修也君(左から2人目)らも訪れた=広島県世羅町、青山芳久撮影

北海道被爆者協会の事務所でスタッフと打ち合わせをする越智晴子さん=札幌市白石区、花房吾早子撮影

被爆当時の越智晴子さん

●陸軍工兵隊
 「おじいちゃんの原爆体験」。表紙にこう書かれた画用紙の束を机の上に置いた橋川武士(たけし)(90)は、うれしそうにほほ笑んだ。そばに長男夫婦、孫2人、ひ孫3人、今春に生まれた玄孫(やしゃご)ら計9人。広島県世羅町の武士の自宅に先月末に集まった橋川家5世代のまなざしが、画用紙に注がれた。

 「顔の皮がぶらさがり、目は片方がつぶれ、指は一本の指が三本分ぐらいにはれあがっていました」

 40枚ほどあるA3判の画用紙を武士の孫・小松裕衣(ひろえ)(34)がめくり、読んでいく。23年前、小学5年生だった裕衣が社会科研究で作った武士の体験記。写真や手書きのイラストもあしらい、武士から聞いた原爆の惨状を描いた。

 その裕衣の隣には、長男の修也(しゅうや)(9)。武士のひ孫にあたる元気盛りの小学3年生だ。だが、この時だけは神妙な様子で言葉の意味をかみしめていた。

 69年前の1945年8月6日朝。米軍のB29爆撃機は「リトルボーイ」という名前の原爆を広島に落とした。強烈な閃光(せんこう)と爆風、熱線。爆心地から約2キロ離れた陸軍工兵隊の兵舎にいた武士は吹き飛ばされた。

 武士はやけどを負ってむずむずする顔を洗おうと、川へ行った。水面に映った顔は左目がつぶれ、頭の皮がめくれて垂れ下がっていた。気が遠くなる自分を奮い立たせ、小高い場所へ。市街地を見下ろした。

 「見わたす限り、家が全部たおれていました」「やけどの人がいっぱい、しゃがんだりころんだり、うなっていました」

 武士の壮絶な体験を聞いた修也が声を上げた。「信じられん」。体験記を読んでいた裕衣が語りかけた。「おじいちゃんが原爆に遭って、それでも生き残ってくれた。だから、みんながこうしておるのよ」

 裕衣は武士の体験記の最後に「原爆のおそろしさが良くわかりました」「二度と起こらないよう、平和であることを大切にしたい」と書いた。その気持ちは今も変わらない。8月6日が近づくと「忘れてはいけない」との思いが強くなる。

 修也の前で23年前の誓いに改めて触れた裕衣は「おじいちゃんのこと、これからはもっと修也に話そう」と決めた。その姿をそばで見つめていた武士は、ずっと保管してきた画用紙の束を手に「これはうちの財産だ」と目を細めた。

生かされた 語り続ける
 ●主婦
 広島から北へ約1200キロ離れた北海道。90歳を超えてもなお、体験を語り続ける被爆者がいる。

 越智晴子(91)。札幌市立大で6月末にあった平和の講義で150人の学生を前にマイクを握った。「近ごろ耳が遠くて、何度も聞き返してしまうの」と言ったあと、力を込めた。「それでも生かされた命。お役に立てばと思って話しています」

 講義を担当するのは、ドイツで核戦略を研究した教授の原俊彦(61)。「被爆者だからこそ、伝えられる思いがある。教員では教えられない」と越智を招いた理由を語る。

 69年前。兵庫県西宮市で暮らす22歳の主婦だった。たまたま広島市の実兄宅を訪れていた時、上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。実兄宅は爆心地から1・7キロ。越智は倒壊した家の下敷きになり、ガラス片が体のあちこちに突き刺さった。
 終戦後、夫の故郷の札幌に移り住んだ。体調がどんどん悪くなり、50メートルの距離が何百メートルにも感じた。ほうきでゴミをはくだけで頭がくらくらした。

 36歳の時、北海道に被爆者の会ができた。参加すると、原爆放射線を浴びた影響と思われる病気に悩んだり、早くに子どもを失ったりした被爆者と出会った。「原爆の罪を訴え続けなさい」。見えない何かに背中を押され、会長となった後はひと月に1回は学校や集会で話すようになった。

 だが、広島と長崎を襲った惨禍から69年たった今も核兵器はなくならない。核の使用につながるかもしれない争いは世界各地で頻発する。「戦争はだめ」。越智は札幌市立大の学生たちに語りかけ、こう締めくくった。
「死んでいった人たちが報われません」

 メモを取り、涙をぬぐう学生もいる中、越智の姿をまっすぐ見つめていた中里森人(19)が言った。「69年前に起きたことを見つめ続けていく。それが凶悪な兵器を食い止めることにつながれば」。越智の思いは届きつつある。  =敬称略(おわり)

話すことが自分の務め
 ◇被爆者の記憶
 (今の居住地、被爆地、氏名・年齢、当時の職業・肩書)

 ■東京都北区(広島) 楠田丘(きゅう)さん(91) 広島文理大理学部3年
 広島、長崎の平和公園に行くと、修学旅行などで訪れている子どもや引率の教員に被爆体験を話す。原爆の恐ろしさを伝えることが、私の社会的義務。

 ■東京都調布市(長崎) 井手ヒサ子さん(89) 家事手伝い
 週1回利用する近くのデイサービスセンターで、周りの人に被爆のことを話している。公の場で話したことはないが、機会があれば話したい。

 ■神奈川県葉山町(広島) 井口俊朗さん(93) 陸軍工兵隊員
 今年6月、住民の茶話会で被爆体験を話した。元気なうちは話す。それが後世に対する自分の務め。

 ■広島県坂町(広島) 大畠美津子さん(89) 役場職員
 地元紙に毎夏、俳句を投稿する。昨年は「反核の 声響かない 世界地図」。今年は「少年の 黒焦げた背に 父母を呼ぶ」という句をしたためた。

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