english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2014年の夏】
(核といのちを考える)原爆、元ソ連スパイの証言 終戦直後、広島・長崎へ (2014年11月9日 朝刊)

ミハイル・イワノフ氏(右)とアレクセイ・キリチェンコさん=2007年11月、キリチェンコさん提供

長崎の爆心地から約1キロ地点

破壊された教会=いずれもソ連が1946年9月、長崎に派遣した調査団の報告書から

廃虚になった病院

 モスクワで今年、101歳の男性が生涯を閉じた。原爆が投下された直後の広島、長崎へ、米国よりも先に調査に入ったソ連軍(当時)のスパイだった。同僚は放射線障害で死亡し、自らは生き延びた。報告書の所在は被爆70年が迫る今も分からないが、元スパイは晩年、親しい友人にその内容を明かしていた。

 ■「SFのよう」 晩年、友人に
 スパイはミハイル・イワノフ氏。第2次世界大戦末期は東京のソ連大使館に在籍し、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の一員として活動していた。戦後も1970年代に武官(軍人外交官)として日本で勤務した。

 「彼が日本人を悪く言うのを聞いたことがない」。日ロ関係史を研究するアレクセイ・キリチェンコさん(78)は、自宅があるロシアのモスクワでこう振り返った。かつて旧ソ連国家保安委員会(KGB)第2総局(防諜〈ぼうちょう〉局日本担当)に勤め、「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)の著者でもある。

 スパイの諜報活動内容は漏らしてはならないとされるが、生前のイワノフ氏はキリチェンコさんに対し、国家の命令で調査した原爆投下直後の広島、長崎での体験を語っていた。キリチェンコさんはその証言の記録をまとめていた。

 ■爆心地真っ平ら
 米軍は45年8月6日と9日、広島、長崎に原爆を相次いで投下した。8日に参戦し、日本に宣戦布告したソ連は原爆を開発しておらず、威力の解明を急ぐ必要があった。

 「現地調査を命じる」。イワノフ氏と同僚のゲルマン・セルゲーエフ氏は上層部から指示され、終戦翌日の8月16日に広島へ、翌17日に長崎へ入った。米国が広島で予備調査を始める20日以上も前だった。

 2人は列車で広島駅にたどり着いた。想像した被害をはるかに超える「SF世界のような光景」に言葉を失った。「恐ろしい病気がはやっている」。日本の公安職員から「視察」を控えるよう説得された。

 爆心地を突き止め、爆発でできたくぼみの深さを確認する――。爆弾の威力を算定するデータとなる状況をつかむことが最大の任務だった。だが、爆心地で見たのは約1キロ四方の真っ平らな空間。巨大なローラーで突き固めたようだった。

 異様な色に溶けた石を拾っていた時、吐き気をもよおすような臭いがした。残留放射線の影響や怖さを知らないイワノフ氏らはそれらを包み、かばんに入れていった。

 長崎では、米国の偵察機が原爆投下前に空からまいたという警告の紙片を見つけた。生き残った人はがれきを使い、一時しのぎのあばら屋を建てていた。死体から出る臭い、うめき声、叫び声……。役所の建物の床で一夜を過ごしたが、一睡もできなかった。

 ■初報告書どこに
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏は、原爆投下直後の被爆地で残留放射線を浴びていた。日本で戦後にできた被爆者援護法に照らせば、「入市被爆者」にあたる。調査後、セルゲーエフ氏は体調を崩して死亡。だが、イワノフ氏は生き延びた。

 イワノフ氏らが作ったとされる「最も早い報告書」はどこにあるのか。

 原爆の投下から62年がたった2007年11月。95歳になったイワノフ氏はキリチェンコさんに「調査報告書や回収品、写真は全て最高指導部に上げた」と語ったという。

 だが、調査報告書の所在は今も分かっていない。イワノフ氏は今年2月に101歳で亡くなり、モスクワの墓地で眠っている。

 ■ソ連、重ねた現地調査
 米国の原爆投下で幕が開いた米ソの対立は、核武装を競い合う冷戦へとつながっていった。「米国がソ連の20都市を核攻撃する」という秘密計画までもたらされたソ連は躍起になり、1949年に原爆の開発にこぎつけた。

 イワノフ氏の報告書の所在は分かっていないが、ソ連が45年9月と46年9月に被爆地に送った別の調査団の報告書はロシア外務省の外交史料館(モスクワ)で保管されている。朝日新聞が閲覧を求めたところ、今年に入って認められた。

 「原爆/広島・長崎への原爆使用の結果に関する資料」と題された45年の報告書は、東京のソ連大使館がスターリンら5人の幹部にあてて作った。46年の報告書は連合国の視察団に加わったソ連情報将校が作成。長崎の被爆を示す写真が十数枚添付されていた。広島の写真は添えられていなかった。

朝日新聞デジタル「核といのちを考える」 (http://t.asahi.com/bbke)に詳報

 ■生死分けたのはウイスキー?
 「イワノフのコップ」伝説に
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏の生死を何が分けたのか。ソ連当局は調べた。

 広島と長崎での視察後、イワノフ氏はモスクワの軍事病院に1年間入院させられて、徹底した検査を受けた。その結果、ある結論が導かれた。

 「命を救ったのはウイスキー」
 イワノフ氏は東京から広島へ向かう列車の中で、サントリーのウイスキーを1人で1本空けた。セルゲーエフ氏は酒を断っていた。

 その後、ソ連は原子力施設で働く職員に少量のアルコール摂取を義務づけ、原子力潜水艦では、摂取のための一杯を「イワノフのコップ」と呼ぶようになったという。

 放射線の防御にはアルコールが有効との「伝説」が広がり、チェルノブイリ原発事故(1986年)や東京電力福島第一原発事故(2011年)の際も、ロシアでは「ウオツカや赤ワインが効く」という話が流れた。

 独立行政法人「放射線医学総合研究所」によると、アルコールと放射線をめぐっては、「ビール成分に防護効果を確認した」とする研究成果がある。一方で、科学的な定説にはなっていないという。

 「伝説」は、広島・長崎の原爆が原点だった。イワノフ氏の95歳の誕生日を祝った際、キリチェンコさんはサントリー・ウイスキーを贈った。
 (核と人類取材センター・副島英樹)

《2014年の夏》 記事一覧