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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年・願い:2) 「最後かも」 今、語り継ぐ (2015年8月3日 朝刊)

写真 被爆から70年間のつらさを振り返る斉藤光弘さん=福岡市西区、岩波精撮影

写真 弟・駿郎さんの写真を手に語る今浦瑛子さん=長崎県平戸市、長沢幹城撮影

■差別におびえ、口つぐんだ

 つらくて、悲しくて、どうしようもなかった。斉藤光弘(74)は偏見と差別に苦しみ、被爆のことを家族以外に話してこなかった。

 1945年8月9日、4歳の斉藤は長崎市内の自宅にいた。爆心からの距離は1・2キロだったが、原爆投下の瞬間は覚えていない。ただ、三菱の工場で働く父が全身にやけどを負って帰宅し、皮膚が異様な臭いを発しながら腐っていった記憶は脳裏に刻み込まれた。

 父は3日後に亡くなり、斉藤は母とともに長崎県内のある島へ。小学校で体にじんましんができた時、横になるために敷いてもらったむしろを教諭が「海へ捨ててこい」と吐き捨てた。25歳のときには、結婚を決めた女性の親に「原爆におうた人からは黒い子どもが生まれる。嫁にはやれん」と言われた。  31歳で島を離れ、福岡で妻と出会った。だが、被爆したことは言えなかった。妻が妊娠し、ようやく「長崎で被爆した」と打ち明けた。長女、次女ともに健康に育った。それでも差別を恐れ、娘たちに「被爆者の子だとは話すな」ときつく求めた。

 今春、被爆者の今の思いを尋ねる朝日新聞のアンケートが自宅に届いた。「本当につらかった」「嫁に内緒で結婚した」――。気持ちに沿って答えを記したあと、取材を受けてもいいと思う人が名前を書く欄が目に入った。  5年前に心臓の手術を受け、今年初めには心不全で入院していた。「最後の節目かもしれん」。家族以外に知られる不安は消えなかったが、名前と連絡先を書いて返送。何度もためらった末、娘2人に電話をかけた。「被爆のことを話そうと思うけど。どうね?」。2人は答えた。「思う通りにしたらいいよ」。斉藤の目から涙がこぼれた。

 娘の夫、その親戚、孫も自分が被爆者と知らない。斉藤は父の70回目の命日が巡ってくる12日、みんなに切りだそうと決めている。

 ■弟の無念、書き尽くさねば

 あまりに壮絶すぎて、あまりに伝えたいことが多すぎて、思うように書き残せない被爆者もいる。

 今浦瑛子(84)は長崎県平戸市で暮らすが、被爆したのは広島だ。仙台に父を残して母らと疎開した神戸が空襲に遭い、今浦と2人の弟だけが広島の伯父の家に移っていた。

 45年8月6日の朝は洗濯物を干していた。米軍のB29爆撃機から何かが投下された直後、轟音(ごうおん)が響いた。「火が出るから逃げろ」。伯父が叫んだが、4歳の弟・泰三がいない。捜し続けると、1・4キロほど離れた小学校の救護所で後頭部から背中、かかとにかけて皮膚が焼けただれ、ぶるぶる震える泰三を見つけた。まもなく息絶え、急ごしらえの火葬場で焼かれた。多くの遺体と一緒だったため、骨は拾えなかった。

 中学1年の弟・駿郎(としろう)の行方も分からないまま、終戦を迎えた。何十年もたち、空襲による延焼を防ぐために家屋を壊す「建物疎開」の作業中に原爆で亡くなったらしいと知った。

 2人の弟の無念を書こうと、16年前に原稿用紙に向かった。だが、泰三の口の中にたかるハエ、焦土の街で駿郎を待った夜を思い出すと、ペンを持つ手が止まる。朝日新聞のアンケートでも、記述欄だけでは足りずに紙3枚を付け足した。4千字近くを費やしたが、あふれる思いを書き表せなかった。  「2人の弟は遺骨すらない。自分が死んだら生きていたことも忘れられてしまう」。戦争や原爆を直接知らない誰かが読んでも伝わるよう、今浦はこの夏、再び原稿用紙と向き合う。
 =敬称略

 ■被爆の体験、17.1%が伝えず

 5762人が回答した朝日新聞の被爆70年アンケートでは、17.1%にあたる984人が体験を「伝えていない」と答えた。うち約400人が「つらくて思い出したくない」「話す機会がなかった」とした。「差別や偏見にさらされる恐れ」を挙げた人も約140人おり、原爆投下から70年になる今も記憶を胸にしまっている被爆者の存在が浮かんだ。

 風化を防ぐ取り組みも進む。広島市と長崎市にある国立の原爆死没者追悼平和祈念館は計約14万人分の体験記と約1900人分の証言映像を集め、両市内にある施設やインターネットのサイト「平和情報ネットワーク」で閲覧できるようにしている。広島市は「被爆体験伝承者」を育成している。