english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年・願い:3) 反核の闘い、福島とともに (2015年8月4日 朝刊)

写真 シンポジウムで思いを語る千葉孝子さん=神戸市兵庫区、筋野健太撮影

写真 福島県浪江町を訪れた時のことを話す田川昌央さん=横浜市都筑区、井手さゆり撮影

 ■おびえる少女は「昔の自分」

 私たちがもっときちんと話をしていれば、54基もの原発ができることにはならなかったのではないか。4年5カ月前に東京電力福島第一原発で事故が起きて以来、後悔の念にさいなまれ続ける被爆者がいる。

 兵庫県芦屋市で暮らす千葉孝子(73)は1945年8月6日朝、広島で被爆した。3歳だった千葉には、原爆が炸裂(さくれつ)したときの閃光(せんこう)と黒いキノコ雲が立ち上る記憶しかない。けがもなかったが、放射線への不安は常につきまとった。

 23歳で結婚する際、助産婦だった夫の母からは反対された。当時、科学的な根拠もなく「被爆者は丈夫な子どもが産めない」と考える人が少なからずいた。千葉は9年間、妊娠しなかった。夫の妹が産んだ子どもを義母が抱き、「外孫でもかわいいのに……」と言った何げない言葉に深く傷ついた。

 だが、その後は3人の子どもに恵まれた。「8月6日」が遠い過去に思えるようになったころ、福島で2011年、原発事故が発生。大量の放射性物質が放出された。被災した女子高校生が「子どもを産んでいいのかな」と言ったという報道に触れ、千葉は胸が痛んだ。「昔の自分と同じだ」

 放射線への不安と恐怖に苦しんできたのに、原発は「核の平和利用」として受け入れていた。今春、被爆者の今の思いを尋ねる朝日新聞のアンケートにつづった。「被爆者として、原発の恐ろしさに気づけなかったことが恥ずかしい」

 7月初め、千葉は神戸にいた。核兵器と原発がテーマのシンポジウム。パネリストとして招かれた千葉は「広島、長崎、ビキニ、そして福島。地球上にどれだけ放射能がたまっているのでしょうか。それを考えると、むなしい」と語った。  千葉の思いは原発事故の被災者にも届きつつある。

 シンポに参加した森松明希子(あきこ)(41)は2児とともに福島県郡山市から避難し、大阪市で暮らす。森松は壇上で力を込めた。「私たちも原発事故を語り続け、核の怖さを訴えていきたい」

 ■「風化させない」吟じ続ける

 ♪あの日の空が まっかに焼けて 仲間が多く去ってから 「君」に笑いは消えていた――

 長崎で被爆した横浜市の田川昌央(まさひろ)(76)は60年代につくられた「泣くな長崎」(作詞・高浪藤夫)の詞に節をつけ、50年近く前から詩吟としてうたってきた。「原爆の被害を風化させない」という思いからだったが、原発については深く考えたことはなかった。

 自分が応援する画家が福島県内で個展を開いた昨年1月、同県浪江町の許可をもらって被災地に入ることになった。バスの車内で、放射線測定器の数値がぐんぐん上がる。その緊張感とは裏腹に、静まり返る車窓の景色。原爆が炸裂したあと、逃げ込んだ自宅の押し入れで感じた異様な静寂がよみがえってきた。

 「住民のいない街並みを見て、それまで生活の営みを続けてきた人々の心情を思うとき、原発事故は絶対許されないと強く思った」

 アンケートにこう記した田川。携帯電話には、津波で内陸へ流された船の写真を残している。そして脳裏には、浪江町で知り合った被災者の姿が刻み込まれている。原発から14キロほど離れたところで300頭余りの牛を守り続ける吉沢正巳(61)。国の殺処分方針にあらがう牧場主は田川に対して「ここには見捨てられた命がある」と言った。

 「資源がない日本で原発は必要と思っていたが、たくさんの人たちの暮らしが奪われてしまった」。田川は「泣くな長崎」をうたうとき、福島への思いも込めたいと考えている。
 =敬称略

 ■7割「原発に反対」

 原爆と原発は、いずれも核分裂の際に放出される強大なエネルギーが利用される。広島には「ウラン型」、長崎には「プルトニウム型」の原爆が投下され、爆発的に発生した熱線、衝撃波、放射線で市民が殺傷された。原発は原子炉で核分裂反応を制御しながら発電するが、コントロールを失えばメルトダウン(炉心溶融)などにつながり、周辺住民らが放射線被害にさらされる危険が生じる。

 5762人が回答した朝日新聞の被爆70年アンケートでは、7割近い3842人が「原発に反対」と回答。福島の原発事故の被災者支援として、8割を超える4679人が「定期的な健康診断」を挙げた。日本原水爆被害者団体協議会も国に脱原発を求めている。