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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年・願い:4) 「核ノー」 米国に問い続ける (2015年8月5日 朝刊)

写真 米国での活動について語る吉崎幸恵さん=福岡市博多区、森下東樹撮影

写真 継承に力を入れる村山季美枝さん=東京都文京区、伊藤あずさ撮影

 ■期待と失望、繰り返しても

 ――長崎出身の私はわずか5歳で、被爆者になりました。親戚の子は急性原爆症で苦しみながら死にました。生存者は70年後のいまも、後遺症で闘病生活を余儀なくされています――

 福岡市で暮らす吉崎幸恵(75)から返送された被爆70年アンケートの自由記述欄。米国のオバマ大統領に宛てたメッセージが並んでいた。約2千の文字からは原爆を投下した国への不信と憤りがあふれる。

 ――核兵器は人類とは共存できない大量破壊兵器だと、あなたが一番ご存じのはず。核実験のたびに被爆地は抗議していますが、あなたとあなたの国、ほかの核保有国も知らないふりを装い続けています――

 吉崎はペンを置いた後、渡米した。ニューヨークでは、核不拡散条約(NPT)再検討会議が4月末から開かれていた。吉崎は首都のワシントンにも行き、街頭で仲間と署名を募った。

 「ニュークリアウェポン(核兵器) ノー!」。素通りする人も多い。だが、期待と失望を繰り返すたびに、「続けることが大切」と自らに言い聞かせてきた吉崎が下を向くことはなかった。

 5年前の再検討会議の前年、オバマ大統領はチェコ・プラハで「核なき世界をめざす」と演説した。会議はこの流れに乗り、「核兵器使用は壊滅的な人道上の結果をもたらす」とした最終文書の採択に成功した。ところが、各地で相次ぐテロやクリミア危機をめぐるロシアのプーチン大統領の「核使用準備発言」などで機運は急速にしぼんだ。

 わずかな希望を持って迎えた今年の会議は、米国の反対で最終文書はまとまらなかった。それでも会議の期間中、ワシントンの教会で吉崎が「悪魔の兵器に賛同する人はいない」と訴えると、たくさんの米国人が拍手で支持してくれた。

 ――あなたはノーベル平和賞を受賞しながら、戦争を続けています。どうか、世界平和のために貢献してください――。アンケートでオバマ大統領に求めた吉崎。会議から約2カ月たった7月、福岡の自宅で言った。「私は、私のできることをしていきます」

 ■被爆者の痛み、共有できる

 東京都文京区の村山季美枝(75)は5歳だった1945年8月6日、広島で被爆した。爆風で飛んできた瓦の傷の跡が左腕に残る。「強く生きなさい」。ともに被爆した母(故人)に背中を押され、42歳だった1982年、生命科学の研究で米国のインディアナ大に留学した。

 歓迎会は被爆37年の「原爆の日」だった。村山は何げなく言った。「今日は原爆が落ちた日なんです」

 上司が応えた。「パールハーバー(真珠湾)」。戦争を始めたのは日本で、原爆は終戦を早めた――。そう指摘されたと思った。

 帰国後も毎年、友人に会いに渡米した。原爆のことを話さなくなった村山に知人が聞いた。「ヒバクシャだよね。体験を話して」。村山は広島の街が一瞬で壊滅した記憶を丁寧に、そして冷静に語った。「信じられない」「もっと被爆体験を話すべきだよ」。知人の言葉に村山は痛みを米国人とも共有できると感じた。

 今もなお、米国の核がなくなる気配は見えない。その「核の傘」に入る日本の姿勢や核廃絶への取り組みについては「情けない」と思う。アンケートには、そんな村山の気持ちが記されていた。

 70歳まで研究に打ち込み、結婚はしなかった。「まだ、被爆に苦しむ人がいる。米国への恨み節で終わりたくない」。順天堂大の客員研究員としての仕事を続ける傍ら、被爆体験の継承に力を入れようとしている。=敬称略

 ■米の世論に46%「憤り」

 米国は原爆の投下後に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立したが、活動実態は十分に明らかになっておらず、「調べても治療はしなかった」とする被爆者も少なくない。市民レベルでは、米キリスト教団体などの支援でケロイドや障害に悩む「原爆乙女」25人が1955年に渡米し、治療を受けた。

 5762人が回答した朝日新聞の被爆70年アンケートでは、米国で「原爆投下で終戦が早まり、多くの人命が救われた」との世論が根強いことに対し、2692人(46.7%)が「憤りを感じる」とした。自由記述欄で米国大統領に宛てたメッセージを書いたのは166人(2.9%)で、子や孫、日本の首相宛てを上回った。