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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年・願い:6) 被爆・復興・平和乗せて 広島の路面電車復元 (2015年6月13日 朝刊)

写真 原爆ドーム前を通過する被爆電車=広島市中区

写真 広島駅に入線した車両を見つめる増野幸子さん=同市南区、いずれも13日午前、青山芳久撮影

写真 広島電鉄家政女学校に入った頃の増野幸子さん=1944年4月、増野幸子さん提供

 広島に原爆が投下された朝、市民とともに路面電車も被爆した。3日後には運行を再開し、「復興のシンボル」とも言われた。そのうちの1両が当時と同じ姿に復元され、13日に街を走った。被爆者、戦争を知らない世代、外国人……。それぞれが70年前の惨禍に思いをはせ、「核兵器のない平和な世界を」と願った。

 上半分が灰色、下半分が青色。レトロな雰囲気を醸し出す車両が午前10時半の出発時刻に合わせ、JR広島駅(広島市)前の電停からゆっくりと動き出した。その姿を見守ったり、カメラで撮ったりする人たちの中に、この日を特別な思いで迎えた女性がいた。

 増野(旧姓・小西)幸子さん(85)。1944年の春、広島電鉄(広電)が運営していた家政女学校に入った。男性の運転士たちが次々と戦地に行き、代わりに増野さんら女学生も路面電車の運転や車掌を任せられるようになっていた。

 戦況が悪化するなか、入学から3週間余りで車掌になり、同じ年の秋には運転席についた。「お国のために頑張らなきゃ」。仕事はきつかったが、懸命に働いた。楽しいこともあった。乗客の男性に声をかけられて、映画館で初デート。ラブレターももらった。

 そんな日常を1発の原子爆弾が奪った。

 翌45年8月6日朝。増野さんは早朝出勤のはずだったが、腹痛に見舞われた。午前8時15分。すさまじい衝撃で目覚めると、爆心地から2キロほど南にあった寮の天井は吹き飛んでいた。背中には無数のガラス片が突き刺さっており、思わず「お母さーん、助けて!」と叫んだ。

 同じ家政女学校に通ういとこらに両脇を抱えられ、8キロほど離れた避難所へ。そこには全身に大やけどを負った女性がいた。入学した時、机を並べた同級生だった。「水、水……」。同級生はうめき、やがて息を引き取った。

 家政女学校には約300人の生徒がいたが、約30人が原爆で命を落としたといわれている。広電の従業員は1241人のうち少なくとも185人が死亡。車両も市内線は9割近い108両が損傷したが、原爆投下から3日後に一部で運転を再開し、電気は被害が比較的少なかった変電所から送られた。焼け野原になった市街地を走る姿は、復興へ歩む市民の貴重な足となった。

 まだ増野さんは起き上がれなかったが、「さっちゃん、わたし、運転してくるね」と言ういとこを誇らしく感じ、「元気になったら運転したい」と思った。その後、女学校は閉鎖されたものの、会社に頼み込んで車掌として2年間働いたという。

 ガラス片が残る増野さんの腰は、被爆から70年になろうとする今も時々痛む。「ともにつらい目にあった電車が当時の姿で走るなんて……。平和って、ありがたいですね」。増野さんはつぶやいた。

 ■「次世代に」「心動かされた」 8月30日まで運行

 被爆当時を知らない人たちも様々な思いを巡らす。被爆電車に乗り込んだ会社員の南嶋勇佑さん(28)=広島市=は「運行を機にみんなが平和を考えるようになれば」。広島大3年の加藤奨一さん(22)=広島県東広島市=は「被爆電車は財産。次の世代にも残してほしい」と語った。

 「過去と現在をつないでいるようです」と言うのはカナダ人のグレッグ・プライゼントさん(26)。「被爆者の悲しみと苦しみに触れ、心を動かされました。世界から核兵器をなくしてほしい」と話していた。

 広電の路面電車は計93編成(150両)で、このうち被爆電車は3両。「651号」「652号」の2両が補修を重ねながら現役で走ってきたが、車体は戦時中と異なる緑とクリーム色だった。今回、2006年から車庫で眠っていた「653号」の車体を当時と同じ灰色と青色に塗り直し、走行できるようにメンテナンスした。3両とも、窓の枠や足元の床は木製だ。

 「653号」は7月25日を除く8月30日まで、土日・祝日限定で1日2便が走る。原爆ドーム前を通って広電西広島で折り返し、広島駅へ戻るルート。車内のモニターでは、被爆者の証言や復興の過程を伝える映像が流れている。乗車には申し込みが必要で、問い合わせは中国放送視聴者センター(082・222・1155)=平日の午前10時〜午後5時=へ。

 被爆地・長崎も路面電車が走っていた。長崎電気軌道によると、56両のうち21両が焼失・損壊し、110人余りの従業員が亡くなった。原爆投下から3カ月半後の11月25日に運転を一部再開し、広島と同様に「復興のシンボル」とされた。(根津弥)