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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える) 70年ぶり、慰霊の島へ (2015年7月4日 朝刊)

写真 金輪島を70年ぶりに訪れた中川タマさん=広島市南区、岡本玄撮影

写真 70年前に金輪島で起きたことを家族に語る中川タマさん

写真 広島市南区、岡本玄撮影(下)田邉芳郎さんの家族(右から母・衣子さん、兄・博介さん、父・次郎さん、芳郎さん、姉の倫子さんと頼子さん)。次郎さん、倫子さんは原爆の犠牲になった=芳郎さん提供

 あの島はどうなったのだろう。70年近くの歳月がたったある日、中川タマさん(90)=神奈川県茅ケ崎市=は、ふと思った。轟音(ごうおん)、立ち上る「きのこ雲」、水を求めながら死んでいった人たち……。島で起きたことは、どうしても忘れることができなかった。

 金輪島(かなわじま)。広島湾に浮かぶ周囲5キロほどの小さな島だった。70年前の8月、広島に投下された1発の原子爆弾で傷ついた人たちが船で運ばれ、中川さんの目の前で息絶えていった。

 「金輪島はどうなったのかな」

 中川さんは今春、家族と食事に行く車の中で長男の重年さん(68)=同県厚木市=に尋ねた。息子たちには、島の記憶を話すようにしてきたつもりだった。でも、その表情や受け答えから、十分に伝わったとは感じられなかった。今回も聞き流されるだろう、と決め込んでいた。ところが、思いがけない息子の言葉が返ってきた。

 「行ってみようか」

 壮絶な記憶しかなく、もう訪れることはないと思っていた島へ、家族と行くなんて――。中川さんの胸が締めつけられた。

 2カ月ほどたった5月上旬。広島市の桟橋に、車いすに乗った中川さんの姿があった。連絡船に乗ると、10分ほどで島に着いた。そばには、この日のために各地から集まった重年さんら3人の息子、2人の孫、1人のひ孫。原爆の犠牲者を悼む慰霊碑の前で、中川さんは語り始めた。

 ◆キーワード
 <金輪島> 広島市南区の沖にあり、面積は約1平方キロメートル。1894(明治27)年に陸軍の造船・船舶修理工場が造られた。「広島原爆戦災誌」によると、原爆が投下された時、島には将兵や工場労働者ら約1千人がいた。島外から約500人の負傷者が運び込まれたとされるが、死者数や負傷者の行き先を詳しく示す資料は残っていない。軍需施設があった瀬戸内海の島々は軍の検閲によって写真から削除され、戦時中の金輪島も「消された島」の一つだった。現在も造船工場などがあり、80人ほどが暮らしている。

(核といのちを考える 被爆70年)90歳の記憶 子に、孫に、ひ孫に 

 70年前の1945年8月6日。中川タマさん(90)=神奈川県茅ケ崎市=は、朝礼で並んだ同僚らと体操をしていた。広島湾に浮かぶ周囲5キロほどの小さな島「金輪島(かなわじま)」。タマさんは陸軍船舶司令部(通称・暁部隊)の「野戦船舶本廠(ほんしょう)」で事務員として働いていた。

 午前8時15分。「ドカーン」という爆音が突然響いた。「なんだろうね」。タマさんが同僚らと話していると、島の山を隔てた約6キロ北西の広島市中心部で大量の煙が立ち上った。みるみる大きくなり、「きのこ雲」になった。

 それから、どれくらい時間がたったのか。船に乗せられた人たちが次々と島に運ばれてきた。全身にひどいやけどを負い、皮膚はだらりとむけていた。男性か女性か、区別がつかない人も少なくなかった。

 うめき、苦しむ人たちを軍人が担架に乗せ、山中の防空壕(ごう)へ。タマさんら女性たちも手伝った。少し前まで話ができていた男の子は直後に絶命した。目を背けたくなる惨状だった。  夜になると、タマさんを含む100人ほどの女性たちは、金輪島から約3キロ南西の「似島(にのしま)」へ船で向かわされた。暗闇には、ずらりと横たわったたくさんの負傷者たち。尿を空き缶でとり、傷口を縫う軍医を手伝っていった――。

 あれから70年。結婚で広島を離れて以来、タマさんは初めて金輪島に戻った。そして3人の息子、2人の孫、1人のひ孫に当時の壮絶な体験を島の慰霊碑の前で語った。今の日本では、想像がつかないかもしれない戦争と原爆の話をどこまできちんと聞いてくれるのだろうか。だが、杞憂(きゆう)だった。

 「おばあちゃんが生きていてくれたから、お父さんがいる。だから、私も生まれた」。タマさんの話を静かに聞いていた孫の梅林しおじさん(34)=東京都小金井市=が言った。ひざの上には、タマさんのひ孫にあたる2歳の重太郎君を乗せていた。「この子も連れてこられるなんて、平和ってありがたいね」。梅林さんはうれしそうに語った。

 「島に実際に来て、話の重みを感じた」と話したのは、タマさんの孫で梅林さんの兄の中川欅(けやき)さん(35)=神奈川県伊勢原市。「この秋に生まれる子どもと再びここに来たい」

 2カ月前、タマさんが車の中で「金輪島はどうなったのだろう」とつぶやいたことがきっかけとなり、実現した4世代・7人の被爆をたどる旅。行ってみようか、と提案した長男の重年さん(68)=同県厚木市=は「地獄を見た母の経験を次の世代に伝える仲立ちができれば。そう思ったんです」と明かした。

 「私には『戦争はだめ』と旗を振る力はもうないけど、そうした思いを持っていると知ってほしかった」とタマさん。息子や孫が原爆の惨禍と平和の大切さに向き合う姿に触れ、改めて誓った。

 「この島で亡くなった人たちのことを、けっして忘れない」

 ■「水をください」刻んだ碑

 《負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむげ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶(くもん)の中で息絶えた》

 タマさんが家族に体験を語る場として選んだ金輪島の慰霊碑には、70年前の惨状が刻まれている。被爆後に島に運ばれ、亡くなった男性の子どもたちが中心となって建てられた。

 男性は広島市内の郵便局で局長を務めていた田邉次郎さん(当時52)。原爆投下から2日後の8月8日、島で息を引き取った。田邉さんには、中国に出征していた博介(ひろすけ)さん(2011年に86歳で死去)、小学3年で山間部に疎開していた芳郎(よしろう)さん(78)=広島市=の息子2人がいた。  金輪島と同じように多数の負傷者が運ばれた似島には、広島市が1972年に慰霊碑を建立。「金輪島にも、被爆者の霊を弔い、心で触れあう場所をつくりたい」。博介さんと芳郎さんの兄弟は、金輪島で亡くなった人の家族を捜して寄付を募った。

 98年に碑を建てた後、夏や秋には慰霊祭を開いた。兄弟は草むしりをしたり花を供えたりするために島に渡り、碑を守ってきた。だが、高齢になった遺族らの足は次第に遠のき、博介さんも亡くなった。戦時中は労働者らでにぎわった島の住民も今は80人ほど。18歳以下はいない。

 一方で、惨禍を風化させまいとする動きもある。今年の8月7日には、東京や広島に住む市民らが金輪島などを巡るツアーを計画している。タマさんの4世代家族が訪れたことも、芳郎さんには「励みになった」という。

 御霊を慰め、共々(ともども)に平和を守る気持ちを新たにしたいと思う

 慰霊碑に残された「島の記憶」と誓い。次世代へ継ぐ営みは続く。
 (岡本玄)

     ◇

 広島、長崎に原爆が投下された8月が再び巡ってきます。70年前の惨禍と向き合い、核兵器の非人道性を訴える被爆者や社会の動きを見つめていきます。