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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年) 被爆体験伝え継ぐ ヒロシマ繰り返さぬ一心 (2015年7月4日 朝刊)

写真 新宅勝文さん(左)から励まされる高岡昌裕さん=2月、広島市中区、青山芳久撮影

 原爆の惨禍を知る被爆者が高齢になる中、体験をどう受け継いでいけばいいのか。広島、長崎への原爆投下から70年になろうとする今、被爆地では新たな取り組みと模索が続いている。

 「何かをしないといけない」。東京電力福島第一原発事故(2011年3月)が起きた時、高岡昌裕さん(36)は突き動かされた。「核」がもたらす最悪の事態を目の当たりにし、同じ「核」による被害を受けた故郷・広島で自分にできることは何かを考え始めた。

 高岡さんは1979年5月、広島市安佐北区で生まれた。その34年前に米軍が投下した原爆で広島の人々は殺傷され、生き延びた人たちも放射線被害に苦しんでいた。学校では原爆が生む悲劇を学び、私立高校1年生のころには「国際高校生サミット」にも参加。だが、原爆や平和と向き合ったのは、それきりだった。

 福島の原発事故後の12年度、広島市の伝承者養成事業=キーワード=がスタートした。「これかもしれない」。高岡さんは司法試験の勉強の傍ら、伝承者になるために3年間学ぶと決めた。なぜ原爆が落とされたのか。核兵器の廃絶が進まないのはどうしてなのか――。月に1回程度、核の歴史を学び、被爆体験に耳を傾けた。

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 誰の伝承者になるかを決める2年目。高岡さんは養成事業に協力している被爆者の中で最年長だった新宅勝文さん(89)を「師匠」に選び、体験を掘り下げて聞いた。それでも深く理解できたとは感じられず、話の中に出てくる場所に連れて行ってもらった。

 「被爆体験はビデオでも残せるんじゃないか」と考えたこともあったが、学ぶうちに「(被爆者の)祖母からも、もっと話を聞いておけばよかった。自分たちが語り継ぐ意義はある」と思えるようになった。

 そんな高岡さんの成長を新宅さんは温かく見守り、体験を伝えた。そして「卒業」が近づいた今年2月。新宅さんは高岡さんに言った。「十分です。少しでも多くの人に語り、私の体験を後世に伝えてください」

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 先月26日、原爆死没者を追悼する国立の祈念館に高岡さんの姿があった。目の前には10人ほどの来館者。高岡さんは少し緊張した表情で、新宅さんの被爆体験を語っていった。

 崩れ落ちた屋根瓦が蚊帳(かや)で止まって命が助かったこと、材木の下敷きになった女性を救えなかったこと、全身の皮膚がはがれた男の子が自分の懐で死んでいったこと……。高岡さんは約40分にわたって話し続け、こう訴えた。「つらい被爆体験をした方が、なぜそれを語ってきたのでしょうか。『ヒロシマ』を繰り返してはいけない、という一心で語ってきたのです」

 高岡さんは昨春、兵庫県に引っ越し、6月から会社勤めを始めた。「人が人に伝えることで、心を動かせると思う。そうした共感を広げていければ」。これからも広島に通い、伝承活動を近畿にも広げたいと考えている。
 (岡本玄、大隈崇)

 ■長崎・アウシュビッツでは

 被爆地・長崎市では、昨年度から被爆2世や3世らが体験を語り継ぐ「家族証言者」を募り、活動を始めている。被爆者からの聞き取り、原稿や資料を作る際の支援、研修もする。市被爆継承課は「家族が体験を継ぐことは意味がある」と話す。

 一方、被爆体験のない人に語り継いでもらう案が出ている長崎平和推進協会継承部会では、「聞き手は実体験を求めている」「自分の体験を人に譲ることはできない」という意見もあるという。

 ユダヤ人が大量虐殺されたポーランド・アウシュビッツの収容所跡地に立っている国立博物館。1997年から博物館公認ガイドを務める中谷剛さん(49)によると、かつては生還者が博物館を案内していたが、今は試験を通ったガイドが来館者を案内している。生還者の高齢化を受けた対応だ。体験をできるかぎり正確に伝えるため、中谷さんは「自分の言葉でなく、生還者の証言をそのまま伝えることに徹しています」と話している。

 ◆キーワード

 <広島市の伝承者養成事業> 2012年度から始まった。原爆の被害や核兵器をめぐる世界情勢を学ぶ(1年目)▽被爆者の体験を聞く(2年目)▽実習(3年目)――といった過程を踏み、伝承者になる。14年度までの1〜3期生に249人が応募。この春から1期生50人が広島市の「広島平和記念資料館」と「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」で活動している。原則、平日は午後1回、土日祝日と夏休みは1日3回。