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紙面から from Asahi Shimbun

【2015年の夏】
(核といのちを考える 被爆70年) 非核、隣国から訴える (2015年8月5日 朝刊)

写真 成洛龜さん

写真 辛亨根さん

写真 沈鎮泰さん

写真 陜川郡庁がまとめた「平和公園構想」のイメージ図。追悼碑(中央)や原爆ドームを模した建物(右上部)も

70年前に原爆が投下された広島には、朝鮮半島出身の人たちもいた。戦後に帰国したあとも、被爆と向き合う歳月を重ねてきた。6日の平和記念式典に合わせて広島の地を踏む人、韓国に「非核拠点」をつくろうとする人……。「核兵器のない世界を願う気持ちは日本の人々と同じ」との思いがある。

 ■被爆、妻にも隠し続けた

 韓国原爆被害者協会の成洛龜(ソンラック)会長(71)=大邱(テグ)市=は1歳の時、広島の爆心地から約1・5キロの自宅近くで被爆。祖母は間もなく亡くなった。終戦後、一家は日本の植民地支配から解放された祖国へ。釜山の船上では、「私が死んだように動かず、周りに『海へ捨てろ』と言われた母の涙で、私は目覚めたそうです」と成さんは言う。

 被爆した祖父も数年後に死亡した。だが、成さんは学校で「原爆で日本が降伏し、わが国が解放された」と教わり、周囲に被爆の事実を話せなかった。「原爆病はうつる」という偏見も根強く、妻にも話さなかった。

 子どもの結婚への影響を恐れて申請しなかった「被爆者健康手帳」を取得したのは高校教師を定年退職した後だった。協会に登録する約2600人のうち、「証人が見つからない」などの理由で手帳を取れない人は80人以上。日本国内で手帳を持つ人と異なり、在外被爆者の医療費は原則として年間30万円の上限がある。

 「韓国の被爆者が十分な治療を受けられるようにしてほしい」と言う成さん。2004年以来、11年ぶりに広島を訪問。韓国人被爆者の代表として6日に広島市で開かれる平和記念式典に参列する。

 元駐広島韓国総領事の辛亨根(シンヒョングン)さん(61)も日韓の大学生の交流行事に参加するために広島を訪れる。

 父の辛泳洙(シンヨンス)さんは広島で被爆し、顔の右半分にやけどの痕が残った。韓国人被爆者の団体結成に加わり、差別解消と支援拡大に奔走する父を見て育った辛さんは「平和に寄与したい」と外交官を志した。広島で勤め、韓国人被爆者が訴訟を通じて健康管理手当などを受けられるようになった背景には「日本市民の支援と努力があった」と悟った。

 1999年に80歳で亡くなった父は「日本が真の平和国家になるまで目をつむれない」と語っていたといい、辛さんは「安保法制や改憲をめぐる動きを見ていると、父の懸念が現実となっているような気がしてならない」と話す。広島では「韓国と日本の被爆者や市民が連帯し、核のない平和な世界へ貢献したい」との誓いを新たにする。

 ■韓国に「平和公園」構想も

 韓国原爆被害者協会に登録する約2600人の被爆者のうち、630人ほどが暮らす陜川(ハプチョン)。犠牲者を追悼し、原爆の惨状を伝えていく「平和公園」の構想が浮上している。

 慶尚南道陜川郡は「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。日本の植民地支配下、山あいに集落が散らばる農村からは大勢の人が仕事を求めたり、軍需工場に動員されたりして広島へ渡った。

 同協会の陜川支部長・沈鎮泰(シムジンテ)さん(72)は2歳の時に広島で被爆。帰国後、父は朝鮮戦争で北朝鮮軍に殺された。「父を亡くし、食べていくのに必死だった」という沈さん。米ニューヨークの国連本部で開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議で5月、韓国の被爆者代表として「国連は非人道的な核兵器を不法なものとし、廃絶の先頭に立つべきだ」と演説した。

 一方で韓国内に目を向けると、公設の原爆資料館はなく、被爆の惨状はほとんど知られていない。陜川原爆被害者福祉会館で暮らす安月嬋(アンウォルソン)さん(85)は、安さんの顔に残る傷に驚いた同世代の男性から「原爆って何ですか」と聞き返されたという。こうした被爆者の声を聞き、沈さんは「陜川にも原爆犠牲者を追悼し、記憶する場が必要だ」と陜川郡庁に提案した。

 郡は追悼碑や展示館などからなる平和公園構想をまとめたが、事業費は概算で400億ウォン(約44億円)。郡単独の負担が難しい中、韓国国会で追悼事業の推進などを盛り込んだ法案を有志の議員が提出。「政府支援につながる」として早期成立を望む声も上がる。沈さんは「被爆者の苦しみを記憶にとどめ、核の恐ろしさを学べる場にしたい」とし、日本からの支援にも期待している。
 (核と人類取材センター・中野晃)