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紙面から from Asahi Shimbun

【2016年】
(核といのちを考える)被爆後5年、刻んだ記憶 1950年、165人が広島市へ体験記 (2016年2月7日 朝刊)

写真 原爆体験記を書いたころの相原勝雄さん(後列中央)と次女の和子さん(手前左)=和子さん提供

写真 アルバムをめくりながら、父・相原勝雄さんについて語る和子さん=広島市南区 渡辺弥蔵さん=進徳女子高校提供

写真 渡辺弥蔵さん=進徳女子高校提供

写真 祖父・弥蔵さんの体験記について語る渡辺健さん=広島市南区

 原爆投下から5年後の1950年、鮮明な記憶のもとでつづられた被爆者165人の「原爆体験記」を広島市がまとめていた。命、暮らし、文化を一瞬で破壊し、生き残った人々に深刻な放射線被害をもたらす核兵器。その「非人道性」を浮き彫りにするメッセージに光をあて、核廃絶につなげようとする営みが広がりつつある。

 ■救えなかった2人の息子「済まない」 投下時46歳

 原爆投下時に46歳だった相原勝雄さん(1989年に89歳で死去)は、50歳の時に体験を記していた。被爆した45年8月6日は広島財務局の戦時施設課長。体験記は爆心地から約1・5キロの自宅で見舞われた惨状から始まる。

 「青白い光閃(こうせん)が屋外一杯に満ちた瞬間、物凄(すご)い音と共に家屋は倒壊した」

 相原さんと妻、当時1歳の次女の和子さん(71)は助かったが、6歳の三男が家の下敷きになって死亡。12歳の次男は外出先で大やけどを負った。  「次男が顔面と左半身を火傷(やけど)して丁度灰でも振り掛けた様に白く皮膚はちぎれてぶら下(さが)り、着ていた白いシャツも破れて素足のまゝで駆け戻った」

 「背中が熱い」と訴える次男を背負い、避難を始めたものの、部下らの安否が気になった。次男を知人に託して家族と別れ、財務局の一部が入った日本銀行広島支店へ。遺体のそばで倒れている重傷者に薬を塗ったり、布団を裂いて作った包帯を巻いたりした。

 「微力ながら責任の一端を果(はた)し得た端緒になったのではないかとも思はれる」  一方で、大やけどを負った次男は被爆から2日後の8月8日に亡くなった。父親として次男と三男の2人の息子を助けられなかったという思いは、相原さんを長く苦しめた。

 「時折亡き二人の可愛い子供の事が思はれてならない。只(ただ)済まなかったの気持(きもち)が沸いて来る」

 次女の和子さんは相原さんが体験を記したことを知ってはいたが、詳しい内容は知らなかった。「父は剣道を愛し、厳しく、きちょうめんでした。そんな父が『済まなかった』なんて……」。和子さんは広島市公文書館が開示した相原さんの体験記を携えた記者に言い、続けた。「父が職業人として、父として遺(のこ)したメッセージ。責任を持って後世に伝えたい」

 ■変わり果てた教え子、ただ呆然 投下時65歳

 被爆時は65歳で、進徳高等女学校(現・進徳女子高校)の教頭だった渡辺弥蔵(やぞう)さん(78年に98歳で死去)の体験記は、今の話し言葉に近い表現でつづられていた。自宅で窓ガラスの破片が背中に数十カ所刺さり、治療のために病院を訪れた時の様子はこうだ。

 「『先生!』と泣き声を立てて飛びついて来た少女がある。しかし私はそれが誰であるか、さっぱりわからない」「『誰ですか』と反問したら、やっと顔をあげて氏名を答えたが、平常の容相は少しも無かった」

 被爆翌日の7日、渡辺さんはあちこちで遺体が焼かれるなか、爆心地から約1・5キロの女学校へ向かっていた。校舎、講堂、寄宿舎はいずれも焼失していた。

 「一人の生徒が仰向けに倒れている。顔が変(かわ)っていて誰だかわからない」

 すさまじい原爆の影響で命を絶たれた子どもを見つけ、衝撃を受けた。

 「三百有余名の出動職員生徒は果(はた)して逃げ果せたろうか、其(その)他一千三百余名の職場出動部隊の生徒は、職員は、ただ呆然(ぼうぜん)と青空を見上げた」

 原爆が投下された時、7歳だった渡辺さんの孫の健(たけし)さん(78)は山口県に疎開していた。体験記を読み終えた健さんは「祖父が『伝えよう、残そう』として筆をとったんじゃないかと感じます」と語った。そして、言った。「戦争で何が起き、今の私たちにどうつながっているかを知ることが大切だと思います」  (岡本玄、国米あなんだ)

 ■デジタル化し公開も 国立平和祈念館

 広島市長を通算4期務めた故・浜井信三氏の著書などによると、体験記は市が募集。集まった165人分の体験記のうち29人分は50年8月6日に小冊子になった。だが、連合国軍総司令部(GHQ)が原爆に関する情報を統制・監視しており、「非売品」とされて広く読まれなかった。

 朝日新聞が65年、小冊子に盛り込まれなかった11人分を含む29人分を出版。69年には広島市の関連団体が作った「ヒロシマの証言」に一部が掲載された。しかし、原本は公開されないまま市公文書館に保管され、コピーは原爆の犠牲者を追悼する国立の平和祈念館の閲覧室に置かれていたが、多くの人の目に触れない状況が続いていた。

 「核兵器のない世界」の実現に向け、鮮明な記憶に沿って書かれた体験記を生かせないか。平和祈念館は体験記をデジタル化し、館内の端末で読めるようにする方針。その承諾を得るため、執筆した被爆者や遺族らを捜している。先月から体験記の企画展を始めたほか、英語や中国語、韓国語に翻訳し、インターネットで公開することも計画している。

 平和祈念館の叶真幹(まさき)館長は「体験記は被爆からまもない時期の貴重な記録。埋もれさせるわけにはいかない」と話している。

 ■「大人の視線」貴重な証言

 被爆関連の資料を集め、自身も被爆者の葉佐井(はさい)博巳・広島大名誉教授(84)の話

 体験記には被爆した場所や避難の道筋、被爆直後の周囲の様子が具体的に描写されたものが多い。子を失った親の悲しみも書かれている。

 いま被爆体験を証言しているのは、私も含めて被爆当時、若かった人が多い。被爆の記憶が鮮明な時期に「大人の視線」で書かれた記録の重要性は増している。