english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2016年】
(核といのちを考える)非核の誓い、火を消さない 日本被団協、今夏60年 (2016年2月12日 朝刊)

写真 被爆後の歩みを振り返る阿部静子さん=広島県海田町、青山芳久撮影

写真 北朝鮮の核実験に対し、別々に抗議の座り込みをする広島の二つの被団協=1月7日

写真 藤居平一=遺族提供

写真 中敬子さん=青山芳久撮影

写真 中さんの母・政木静枝さん

 原爆による惨禍を繰り返させない――。世界に核廃絶のメッセージを発してきた被爆者団体がこの夏、創設から60年を迎える。「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」。地球上から今も核兵器はなくならず、活動も高齢化でしぼむ中、非核・非戦の思いは脈々と継がれている。

 「慰め合い、励まし合いながらの60年でした」。広島県海田町で暮らす阿部静子さん(88)は少し遠くを見つめ、つぶやいた。

 18歳だった1945年8月6日朝、爆心地から1・5キロで被爆した。地上約600メートルで炸裂(さくれつ)した原爆の強烈な熱線で、顔と右半身を焼かれた。終戦後も顔は赤く腫れたまま。「赤鬼」と心ない言葉をかけられることもあった。

 そんな阿部さんら被爆者の気持ちを代弁し、支えとなった男性がいた。原爆で父と妹を亡くした藤居平一(1915〜96)。阿部さんは29歳だった56年3月、被爆者救済を国会に求めるために藤居らと上京した。当時、米国によるマーシャル諸島での水爆実験でマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)したビキニ事件(54年3月)をきっかけに、原水爆禁止運動が高まっていた。

 国鉄東京駅のホームで報道陣に囲まれた藤居は言った。「私たちは黙ってうつむいて過ごしてきました。その私たちが、今こうして上京するまでになったのです」。こうした藤居の姿を阿部さんは今も忘れられない。「私たちの心に火をともしてくれた。まるで火の玉のような人でした」

 阿部さんらは後に首相となる池田勇人の自宅にも足を運んだ。池田からはこう助言されたという。「組織を作って、国会に請願してはどうですか」

 約2カ月後の56年5月、藤居は広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の発足にこぎつけた。阿部さんは「私のように、陰で泣いている人がいるに違いない」と思い、藤居を手伝った。同年8月に日本被団協が創設され、藤居が初代の代表委員となった。

 「まどうてくれ」。藤居の口癖だった。「もとに戻してくれ」という意味の方言で、被爆70年を迎えた昨年8月6日の平和宣言で松井一実(かずみ)・広島市長も引用した。家族、暮らし、文化を一瞬で奪われ、戦後も放射線への不安といわれのない差別に苦しんだ被爆者の痛みを表現した言葉だった。

 藤居は96年に80歳で亡くなった。阿部さんは遺志を引き継ぎ、若い世代に「核の非人道性」を伝え続けた。「いまは、あの爆弾(核兵器)が100万発分もある。恐ろしい時代です」。2005年に広島市内で開かれたフォーラムではこう語り、警鐘を鳴らした。

 顔や手のケロイドをはいで、体の別の部分から皮膚を移す手術を18回にわたって受けたが、もとには戻らない。3年前には胃がんを患い、運動の一線から退いた。だが、願いは募るばかりだ。「二度と悲しく、苦しい体験を誰にもさせたくない」。阿部さんはまなざしを記者に向けた。

 ■組織統一・高齢化が課題

 広島、長崎では45年末までに原爆で約14万人、約7万4千人が亡くなったとされている。だが、しばらくの間、被害の実態は連合国軍総司令部(GHQ)の統制によって広く知られることはなかった。

 ――私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から「生きていてよかった」とよろこぶことができるでしょう――

 原爆投下から11年後の56年8月10日、日本被団協はこう宣言して創設された。日本政府に被爆者の救済を求めつつ、国連総会や国際会議に合わせて被爆者らを派遣。「再び被爆者をつくらない」とのメッセージを発信し続けてきた。地球上に1万5千発を超える核兵器があるなか、広島と長崎以降、戦争や紛争では使われてこなかった。世界に「核の非人道性」を訴えてきた被爆者、日本被団協が果たした役割は大きいとして、ここ数年はノーベル平和賞に推薦する動きも出ている。

 一方で、課題は山積している。日本被団協を下支えする広島県被団協は旧ソ連の核実験をめぐる旧社会党と共産党の対立のあおりを受け、64年に分裂。今も坪井直(すなお)さん(90)と佐久間邦彦さん(71)がそれぞれ理事長を務める状態が続く。

 被爆者健康手帳を持つ人の平均年齢は80歳を超え、43都道府県にある地方組織傘下の団体・グループの解散が相次ぐ。日本被団協は昨年6月の定期総会で役員を若返らせ、実務を担う事務局次長の一人には胎内被爆者の浜住(はますみ)治郎さん(70)=東京都稲城市=が就いた。

 浜住さんは取材に「被爆者と今後の運動を担う『被爆2世』をつなぐ役割を担いたい」と話している。

 (岡本玄、大隈崇)

 ■母の歩いた道、知らぬ間に

 「核といのちを考える」の取材班にあてて、広島市の中(なか)敬子さん(63)から手紙が届きました。中さんの承諾を得て、紹介します。

    ◇

 初めてお便りします。「核といのちを考える」を読んで、昨夏の経験を書いてみようと思いました。

 私の母は2年前、85歳で亡くなりました。17歳の時、広島市で被爆しています。私は「原爆の話はいつでも聞ける」として過ごしてまいりました。母が安田高等女学校(現・安田女子中学・高等学校、爆心地から約1.4キロ)の寄宿舎で被爆したことは知っていましたが、場所さえ知らないままでした。母は認知症になり、被爆当時の話を聞く機会を失いました。

 それは何げないきっかけでした。久しぶりに高校時代の友と話していたとき、彼女の母親も安田高等女学校の寄宿舎にいたというのです。

 私の母は8月6日(広島への原爆投下日)は体調を壊して学徒動員を休んでいたそうです。気がつくと、2階にいたはずが地面に倒れ、建物の下敷きに。どうにかはい出し、その後、寄宿舎の防空壕(ごう)に入れてもらったそうです。医者が母の体から取り出した建物の破片は両手いっぱいあったそうです。

 私は「母が被爆した場所を知りたい」と思いました。広島平和記念資料館に友人を案内し、被爆後の広島の模型を目にしても「私の母はここにいた」と言うことができず、悲しく恥ずかしい思いをしておりました。

 安田学園に問い合わせて創設者の記念館があることを知り、友と共に訪ねました。当時を知る職員の方が不在で、再訪を約束して帰りました。途中で昼食をとり、女学校の旧校舎があったと言われる場所を通って帰りました。

 後日に再訪すると、職員の方が当時の地図などを用意して待っていてくださいました。その地図と今の地図を比べて驚きました。先日、私と友が楽しくおしゃべりしながら歩いた道は、まさに母たちが寄宿舎から学校に通った道でした。寄宿舎は私たちが昼食をとった場所辺りにありました。70年あまり前、母が友人たちと楽しく語らいながら学校に通った道を、私は何も知らず友と歩いていたのです。

 70年前のあの日、母たちは人の助けをもらって命をつなぎ、それが私たちに受け継がれました。不思議な巡り合わせと、若き日の母たちに再会をしたような出来事に遭遇できたことに感謝致しました。

 一個人の、広島ではどこにでもあるような話ですが、誰かに話してみたくなり文章にしました。読んで下さり、ありがとうございました。

 ■日本原水爆被害者団体協議会の歩み

 <1945年8月> 広島、長崎へ原爆投下

   <56年8月> 長崎市で開かれた第2回原水爆禁止世界大会で日本被団協創設

   <57年4月> 原爆医療法施行。被爆者の健康診断、原爆症認定患者への医療給付、被爆者健康手帳の交付開始

   <64年6月> 広島県被団協が分裂

   <68年9月> 援護法制定を求める被爆者の声が高まるなか、原爆特別措置法施行    <70年3月> 核不拡散条約(NPT)発効

  <74年10月> 全被爆者の医療費の自己負担分が無料化

   <82年6月> 長崎の被爆者・山口仙二さんが国連軍縮特別総会に被爆者代表として参加。「ノーモア・ヒバクシャ」と初演説

   <86年4月> チェルノブイリ原発で事故

   <95年7月> 原爆医療法と原爆特措法が一本化された被爆者援護法が施行

  <96年12月> 原爆ドームが世界遺産登録

<2006年10月> 北朝鮮が初の核実験

   <09年4月> 米オバマ大統領がチェコの首都プラハで「核兵器なき世界をめざす」と演説

      <8月> 麻生太郎首相が日本被団協との原爆症認定集団訴訟の終結を確認。訴訟は国が19連敗

   <15年4月> NPT再検討会議(9回目)渡米した日本被団協の代表団が核廃絶を訴える

      <8月> 日本被団協が「命ある限り市民社会と連携して訴えつづける」とした「被爆70年 広島・長崎宣言」を発表