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紙面から from Asahi Shimbun

核なき世界へ 被爆国から2015  
元広島カープ監督・山本浩二さん    (2015年6月10日掲載)

写真 元広島カープ監督・山本浩二さん

 ■「8・6」胸に立つ選手

 おやじは軍人で、おふくろと兄貴2人と姉が被爆しました。自宅は爆心から2〜3キロ。家で話題になることはなかったけど、「たまたま建物の壁で爆風を避けられ、助かったんや」と聞いたことがあります。

 原爆のことは風化させちゃいかんし、継承しなきゃいかん。でもね。犠牲になった人がたくさんいたから「言いたくない」「話したくない」という人もたくさんいたんでしょうね。

 野球を見て楽しんで、ちょっとの間でも思い出さなくてもいいようにしたい――。そういう人たちの気持ちが、広島東洋カープという「弱小球団」を応援し続けたことにつながったと思います。

 私も物心がついたときから、おやじに球場に連れていってもらっていました。「復興への明るい材料」だった一方で、当時は貧乏球団。遠征に行くお金もなかった。だから、存続させるための「樽(たる)募金」(1951年の経営危機の際、募金のために球場の入り口に置かれた酒樽)が始まったんです。

 市民も原爆ですべてを失っていましたが、「おらがカープ」という感覚がみんなにあったのかな。すごく支援が広がった。(被爆30年にあたる)75年に優勝しましたが、そういう歴史をひもとき、大変な苦労があったことを忘れてはいけない。カープの選手もね。

 現役時代、シーズン中は被爆や「核兵器と世界の情勢」といったことを考えながらプレーしていたわけではありません。日々、真剣勝負をしていたからです。それでもチームの選手たちは、胸の内では(原爆が投下された)8月6日への思いはそれぞれあったのではないでしょうか。私は今も黙?(もくとう)しています。

 広島平和記念資料館に行くと、やはりつらいです。平和が一番ですね。

 (聞き手・大隈崇、写真・山本和生)

    *

 やまもと・こうじ 1946年、広島市生まれ。69年に広島東洋カープに入団し、本塁打王4回。カープ一筋で「ミスター赤ヘル」と呼ばれた。引退後は監督を計10シーズンにわたり務めた。現在は野球解説者。