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紙面から from Asahi Shimbun

聞きたかったこと

 「聞きたかったこと」は、朝日新聞広島県内版で2008年4月に始まりました。記者が被爆者の人生をたどり、その思いを聞いています。被爆者としての人生を強いられた人の言葉は、「核時代」を生きる私たちの警句でもあります。東日本大震災を経ての思いにも迫ります。原則週1回の掲載で今も続いています。収録にあたって、年齢・肩書は掲載時のままとしました。

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    心の傷 いまも夢に  草田カズエさん(78)

     1対1の同点。バッターが振り切った打球が大きな弧を描いた。必死で追いかけた外野手が捕球した瞬間、三塁ベースから猛ダッシュをかけた。本塁を駆け抜けた時、ベンチから歓声が聞こえてきた。
     1947年6月、安田高等女学校(現安田女子中学高校)のソフトボール選手だった草田カズエさん(78)=海田町=は、呉市の二河公園運動場(現・呉市二河野球場)であった県大会で決勝点のホームを踏み、初優勝を飾った。2年前のあの忌まわしい記憶を振り払うようにソフトボールに打ち込んだ日々が報われた瞬間だった。 ……

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    悲しみ封印、焼いた遺体  秦 勇太郎さん(78)

     家族が亡くなった時、知人の訃報(ふほう)を耳にした時、テレビで有名人の逝去を知った時……。人が死ぬと、あの光景がよみがえる。
     「人が死んだら、どうなるんか。あのにおい、あの感触を知っとるから、『死』がどういうものかわかる気がするんよ」
     広島市安芸区の秦勇太郎さん(78)は原爆投下から数日後、自宅近くの「焼き場」で近所の人たちの遺体を焼却処分した。「あまりに情けなく、できれば思い出したくない」と言いながらも、その経験を語ってくれた。 ……

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    故郷までも奪った戦争  山崎 寛治さん(80)

     平和記念資料館(広島市中区)から北へ約50メートルの平和記念公園内に「北天神町原爆犠牲者芳名」はある。約270人の名が刻まれたこの碑を、山崎寛治さん(80)=府中町=は毎日のように訪れ、公園の脇を流れる元安川の水をくんで供える。
     山崎さんが少年時代を過ごした自宅は、資料館の北側の入り口付近にあった。父を早くに亡くし、天神町(現・広島市中区中島町)の2階建ての借家に母と2人で暮らしていた。近所には4軒もの病院や大きな旅館、針工場などがひしめき合い、往来はいつもにぎやかだった。夏には、元安川で泳ぎ、遊ぶ子どもたちの笑い声が響いていた。 ……

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    祖国で長く体験語れず  柳 永秀さん(78)

     韓国・慶尚南道の山あいの農村地帯、陜川(ハプチョン)郡は600人を超える広島被爆者が暮らし、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。その一角、原爆被害者福祉会館に暮らす柳永秀(ユヨンス)さん(75)が日本にいた頃の名前は「柳川永秀(やながわえいしゅう)」。「原爆がなければ今も広島で暮らしていたかもしれません」。被爆前に撮影した家族写真を手に、よどみない日本語で半生を語った。 ……

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    米兵憎んだ自分責めた  久保崎六郎さん(81)

     瀬戸内海をのぞむ呉市天応東久保の久保崎六郎さん(81)は、毎朝5時半に目が覚める。布団から起き上がると、左足がしびれている。2年前から脊柱(せきちゅう)管狭窄(きょうさく)症を患い、週6日リハビリに通っている。そのしびれが「黒こげの街」の記憶を呼び起こす。
     がれきの山、うめき声、折り重なるように倒れている死体。だが、それだけではない。凄惨(せいさん)な光景の中には必ず若い米兵の姿がある。「申し訳ないことをした」。思い出すと、胸が締め付けられる。 ……

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    「原爆落とした国」で50年  カズ・スエイシさん(81)

     広島原爆の日を前にした8月3日、米ロサンゼルス市・リトル東京地区の高野山米国別院で、恒例の原爆犠牲者の追悼法要が開かれた。参列したのは米国在住の被爆者と家族ら約80人。その中に「カズママ」と呼ばれるカズ・スエイシさん(81、日本名・据石和)の姿があった。「原爆を落とした国」で暮らし始めて半世紀。米国の子らに体験を語って約30年になる。……

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    長男の死「原爆のせい」  高山 等さん(77)

     被爆証言者として、東広島市の被爆者団体の会長として、高山等さん(77)はこれまで何百何千回と「あの日」からのことを話してきた。だが、被爆から62年を過ぎても、ほとんど話してこなかったことがある。  「自分を責めました。私が被爆したせいなんじゃないかと情けない気持ちでね」  原爆の後遺症で不自由な腰をそらして大きく息を吐くと、ふと、胸にしまっていた長男への思いが漏れた。……

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    ミカン缶 涙の記憶  浅野 温生さん(76)

      あの時から、ミカンの缶詰が大嫌いになった。63年前の8月8日、瀕死(ひんし)の大やけどを負い、防空壕(ごう)に横たわっていた幼なじみの裕(ひろし)ちゃんが「ヨッチャンも食べろ」と勧めてくれた。当時は貴重品だ。だが顔の下半分がむごたらしく腫れ上がった彼の前で、無傷の自分が食べる勇気はなかった。旧制中学2年だったヨッチャンは新聞記者になり、被爆者の思いを追いかけ続けた。今、思う。「裕ちゃんの命を奪ったあの日の惨状を見たことが、自分の生き方を縛ってきたのかも」……