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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
心の傷 いまも夢に 広島県海田町 草田カズエさん (78)
(2008年4月2日 朝刊)

写真 自身の背中に42年間刺さっていたガラスを手にする草田カズエさん=海田町の自宅

写真 被爆から2年後、ソフトボール部が初優勝し、賞状を持って集合写真におさまる草田カズエさん=1947年撮影

 1対1の同点。バッターが振り切った打球が大きな弧を描いた。必死で追いかけた外野手が捕球した瞬間、三塁ベースから猛ダッシュをかけた。本塁を駆け抜けた時、ベンチから歓声が聞こえてきた。

 1947年6月、安田高等女学校(現安田女子中学高校)のソフトボール選手だった草田カズエさん(78)=海田町=は、呉市の二河公園運動場(現・呉市二河野球場)であった県大会で決勝点のホームを踏み、初優勝を飾った。2年前のあの忌まわしい記憶を振り払うようにソフトボールに打ち込んだ日々が報われた瞬間だった。

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 45年8月6日、草田さんが学校へ行くため爆心地から約1・5キロの同級生宅に立ち寄った時、黄色い光を浴びたと思うと足元が揺れ、屋根の下敷きになった。音の記憶はない。

 気がつくと、青空は消え、煙幕をたいたように視界がきかなくなっていた。体をたたきつけられた畳は焼き魚のように黒くこげ、背中はガラス片を浴び、両足は太ももから指先まで皮膚がただれていた。恐怖心にうたれながら立ち上がったとき、風船のように顔が膨らんだセーラー服の少女が立つ姿が目に入った。「あんた誰?」。口にしかけた瞬間、色白でべっぴんさんと評判だった同級生の変わり果てた姿と気づいた。

 何が起こったのかわからないまま、翌日、約10キロ離れた農家の自宅にたどり着くと、そのまま倒れ込んだ。

 10月まで立ち上がることができず、痛みがひいても皮膚が盛り上がったケロイドは残った。べっぴんさんの同級生は原爆症で亡くなった。

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 「ソフトボールやってみんか」。被爆から約1年後。女学校に戻った草田さんはグラウンドでバレーボールをしていた。当時25歳だった数学科の安田實(みのる)教諭(87)に声をかけられ、しばらく返事ができなかった。

 「男のするもん、すまーね」。最初はそう言っていた草田さんがその気になったのは、手を傷だらけにしながらもボールを投げたり、バットではじいたりすることに、感じたことのない爽快(そうかい)感を覚えたからだ。

 焼け野を更地にした学園のグラウンドに約10人の少女たちが立ったのは46年秋。原爆で教職員と生徒324人が犠牲になった女学校に全国に先駆ける形でソフトボール部が創設された。もんぺ姿にはだし。グラブもない。それでも少女たちは毎日暗くなるまでボールを追った。口の悪い大人は「おなごがすりこ木でボール遊びして、嫁に行けんぞ」と揶揄(やゆ)した。女性の競技スポーツがまだ一般的でなく、広島の復興が緒についていなかった時代だった。

 被爆後の広島では「原爆を受けた女性とは結婚するな」という噂(うわさ)が広がった。ましてケロイドを負った自分はあきらめの人生を送らなければならない。草田さんのそんな葛藤(かっとう)は、ソフトをしている瞬間は消えた。誰も原爆のことは口にしなかった。

 初代主将を任された草田さんは、グラウンドで人が変わったように積極的だったが、夏が来ると一転、心が落ち込んだ。練習が終わると、体力づくりを兼ねて女学校の裏手の川で水泳をすることになった。ケロイドがあるのは部員でただ一人。水着姿になるのが心底嫌だった。空気を察したのか、安田教諭に「やけどが見えるのが嫌なんか」と聞かれた。恥ずかしくて首を縦に振れなかった。だが、主将だからと開き直ると、何かが超えられた気がした。

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 卒業後は社会人ソフトチームにも誘われたが、親の反対であきらめ、21歳で結婚。その後は夫が営む製材会社を手伝いながら戦後を過ごした。

 プロ野球や高校野球を見ているときは、被爆を忘れられた。50年に創設された広島カープの熱心なファンだった。「小さな大投手」と言われた長谷川良平の活躍に活力をもらった。

 だが、遠ざけていた被爆の記憶は時々、容赦なくよみがえってきた。子どもが生まれて海水浴に行った時、職場旅行で温泉に行った時。ケロイドの足をさらすことを考えると、落ち込んだ。

 被爆から42年後、左の背中に痛みを感じ、手術すると三角形のガラスが出てきた。長さ2センチ、幅1センチの、被爆した同級生の自宅であびたガラス片。悪魔の産物だった。しかし、なぜか捨てることはできなかった。こんな物が体に入っていても自分は負けずに生き抜いてきた。その証拠としての「宝物」だと思えるようになったのは、被爆50年を迎えたころだ。

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 安田教諭がソフト部を創設したのは「原爆で何もかも失った生徒らに何か希望を見いだせるものをつくらなければ、学園は再建できない」という思いからだったと聞いたのは、卒業して数十年たってからだった。

 先月20日、その安田教諭が87歳で死去した。晩年は安田学園の理事長を務めていた。広島市西区の寺で営まれた葬儀には草田さんらソフト部の1期生3人が駆けつけた。「原爆で強いられた心の傷は一生消えない。でも、ソフトボールとの出会いがあったから、生きてこられた」

 いまも被爆体験が夢に出てうなされるが、生きる希望を決して失うことはない。

 (武田肇)

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 あの夏から今年で63年になる。広島、長崎の原爆で命を奪われた人はその年だけで20万人を超え、被爆者健康手帳を持つ人は国内外に約25万1800人を数える。被爆者として強いられた人生は、「核時代」を生きる私たちへの警句でもある。被爆者の人生をたどり、その思いを聞く旅を始めたい。