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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
悲しみ封印、焼いた遺体 広島県 秦勇太郎さん (78)
(2008年5月14日 朝刊)

写真 元気そうに見えても、人工透析のある日は体調を崩しやすいという秦勇太郎さん。「今、原爆症認定の申請中。認められないとつらい」=広島市安芸区

 家族が亡くなった時、知人の訃報(ふほう)を耳にした時、テレビで有名人の逝去を知った時……。人が死ぬと、あの光景がよみがえる。

 「人が死んだら、どうなるんか。あのにおい、あの感触を知っとるから、『死』がどういうものかわかる気がするんよ」

 広島市安芸区の秦勇太郎さん(78)は原爆投下から数日後、自宅近くの「焼き場」で近所の人たちの遺体を焼却処分した。「あまりに情けなく、できれば思い出したくない」と言いながらも、その経験を語ってくれた。

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 15歳だった。爆心地から約2キロの吉島羽衣町(現・広島市中区吉島地区)にあった学徒動員先の工場で、同級生とともに女学生らに作業を教える補助をしていた。

 朝8時からのラジオ体操が終わって数分後。突然の閃光(せんこう)と爆風、割れた窓ガラスが襲いかかってきた。

 とっさにしゃがみ込み、目をつぶったことしか覚えていない。気が付くと頭や腕にガラスの破片が突き刺さり、かなり出血していた。砂埃(すなぼこり)が立ちこめた工場内に目を凝らすと、数十人いた女学生たちもみな、ガラスが刺さって大ケガをしていた。

 医務室で応急手当てを受け、軽傷だったため自宅へ帰るよう指示を受けた。最初は工場のすぐ近くに爆弾が落ちたと思っていたが、外に出てあぜんとした。あたりは火の海だった。川には、馬やら人やらよくわからない物がたくさん流れていた。約15キロ離れた安芸郡中野村(現・広島市安芸区)の自宅まで、何時間もひたすら歩いた。

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 数日もたつと、近所の人たちの消息が少しずつわかってきた。多くの人が市内の中心部に通っており、亡くなっている人も少なくなかった。

 だが、悲しむ暇はなかった。当時、自宅のすぐ近くの山の中に、遺体を焼却する「焼き場」があった。貴重な男手として白羽の矢が立ち、「番」を務めることになった。

 焼き場には屋根があり、人が1人入るほどの穴が掘ってあった。まずはそこに枯れた松葉などを敷く。その上に、間を空けすぎず、詰めすぎずにまきを置く。穴の中に遺体を転がすように入れ、火をつける。

 「顔がふくれあがっとってわからんが、近所の人が『○○さんよ』と言って運んできよる。ただ『ごくろうさまでした』『おつかれさまでした』と念じとった」

 火を絶やさないようにするのが、難しかった。完全に1体の遺体を燃やすには丸一晩かかった。焼け残ると腐ってしまい、うじがわいたり悪臭がしたりと大変なことになる。夜中でも度々、火の具合を確認に行った。

 無心で作業を続け、3〜4日間で10体弱の遺体を焼いた。「悲しさやつらさはあったが、封印した。やり場がなかったんよ」。それ以来、焼き場の跡地には一度も行っていない。

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 戦後は自動車会社に就職し、営業マンに。目の前の生活に追われ、戦時中を思い返すことはなかった。だが、誰かの「死」に直面するたび、あの光景が頭をよぎった。

 73年、父が胃がんで死んだ。父は、河原町(中区)の親族を訪ねて大正橋(南区)近くで被爆していた。葬儀が終わり、遺体が入った棺が火葬場に入れられると、わずか数時間で骨だけになって出てきた。「あの時は、あんなに苦労したんじゃが」。あまりのあっけなさに、悲しみが増した。

 そして今、自らも「死」を意識し始めている。これまでに大腸がんなど多くの病を患い、今は週3回の人工透析を受けている。貧血や高血圧にも悩まされ、体調の良くない日は一日中寝て過ごす。

 今年、同じ病院で人工透析を受けていた同年代の友人が3人亡くなったという。そう言いながら、「いつも『今度はわしじゃないか』と不安を感じとる」と漏らした。

 死ぬのが怖いわけではない。だが、「死」を意識するようになった今、あの経験が教えてくれることがある。

 「死ぬことは、はかない。本当にさみしいことなんよ」

(瀬谷洋平)