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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
祖国で長く体験語れず 韓国・慶尚南道 柳永秀さん (75)
(2008年6月4日 朝刊)

写真 1日1回自分でインスリンを打つ柳永秀さん。「被爆のせいかはっきりわからぬが、つらい」=韓国・慶尚南道陜川 被爆から10年後、韓国軍に徴兵されて憲兵になった柳永秀さん

 韓国・慶尚南道の山あいの農村地帯、陜川(ハプチョン)郡は600人を超える広島被爆者が暮らし、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。その一角、原爆被害者福祉会館に暮らす柳永秀(ユヨンス)さん(75)が日本にいた頃の名前は「柳川永秀(やながわえいしゅう)」。「原爆がなければ今も広島で暮らしていたかもしれません」。被爆前に撮影した家族写真を手に、よどみない日本語で半生を語った。

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 両親は陜川出身の元農民。自身は大阪市で生まれた。一家が広島に移り住んだのは5歳のとき。「貧しく、生きるために日本に来るしかなかった」。肉体労働で5人の子を養った父はそう話していた。

 佐伯郡友和村(現・廿日市市友和)の国民学校では同級生から「チョーセン」とからかわれることもあった。だが、担任教師は「お前は勉強がよくできる。法律家になれ」と励ました。45年4月、山陽中に入学。同級生60人中、中学に進学したのは柳さんを含め5人だけだった。

 その日の朝はいつも通り、学生服に制帽姿で下宿先の草津(広島市西区)の叔父宅を出て、電車で宝町(同市中区)の学校へ向かった。乗り換えのため己斐駅(現・広島電鉄西広島駅)のホームに立った時、青白い閃光(せんこう)を浴びたと思うと、爆発音が耳をつんざいた。爆心地から約2・5キロ。電車の下に潜り込むと、駅舎が倒壊し、瓦礫(がれき)が落下した。

 心臓が早鐘のように鳴った。しばらくしてはい出てみて驚いた。建物はすべて倒れ、真っ裸になった人たちが「助けてくれ」とわめき、むいたバナナの皮のように皮膚を垂らした負傷者があふれていた。

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 叔父宅に必死で逃げ帰り、友和村にいて被爆を免れた両親と再会した。その夜、消息不明となった長兄を捜すため、一家で広島市内に入市した。翌日、兄は肩に重傷を負った状態で救護所にいるのが見つかった。その直後、元々は健康体だった母が高熱を出して倒れ込んだ。血を吐き、下痢がとまらず、食事も受け付けない。村の医師は「治療できない」と首をふるばかりだった。薬を買う金もなく、母は2カ月後、38歳で亡くなった。「原爆の毒をすったせいだ」と近所の人はささやいた。

 ショックを受けた父は帰国を決めた。「日本にいる朝鮮人は殺される」といううわさも流れていた。母の遺骨を抱えて山口県・仙崎港から連絡船に乗ったのはその年の暮れだった。

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 言葉すら十分に通じない「祖国」での暮らしは厳しかった。小屋のような家に親類ら13人で暮らし、雑草を混ぜた「犬餅」とよばれる代用食で食いつなぐ日々が続いた。

 どん底の生活が少し上向き始めたころ、朝鮮戦争が起きた。一家が身を寄せていた陜川郡の村も戦場になり、山の中を逃げまどった。

 死を覚悟した瞬間があった。タバコ畑に潜んでいたとき、韓国軍に追われて敗走する北朝鮮軍のゲリラ兵士に捕まり、道案内を命じられた。だが、日本帰りで地理がわからず、戸惑っていると兵士の一人が「殺してやる」と胸にピストルを突きつけた。別の村人がとっさに案内役を買って出て事なきを得たが、頭の中が真っ白になった。

 20歳から26歳まで51カ月間韓国軍に徴兵され、憲兵として前線近くに派遣された。ある時、同僚が「アメリカは戦争で原爆を使うつもりだった」と言った。被爆体験がよみがえり、怒りでふるえた。だが、口をつぐんだ。日本の敗戦によって植民地支配が終わった韓国では原爆を祖国解放と結びつける空気があった。被爆者への差別もあった。体験を絶対明かすまいと決めた。

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 夜間学校に通いながら勉強し、被爆から約30年たってから、42歳で司法書士の試験に合格した。広島で被爆した妻沈栄子(シムヨンジャ)さんとの間にもうけた4人の子どもを大学に行かせた。だが、60歳半ばに突然銭湯で倒れ、右半身がまひした。脳梗塞(こうそく)だった。

 単身で広島を訪れ、被爆者健康手帳を取得したのは97年5月。被爆から半世紀たって初めて日本政府から「被爆者」と認められた。だが、帰国すると、健康管理手当(月額約3万円)が打ち切られる状況は03年まで続いた。

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 約3年前に陜川の自宅を引き払い、妻と福祉会館に移り住んだ。約80人の被爆者と共同生活する。残りの人生はあとわずかと考えたとき、自分たちと歩みが共通する被爆者と一緒の方が心が安らぐと考えた。毎朝、インスリンの注射を腹に打ち、11種類の薬を飲み、ときおり訪れる韓国や日本の若者らに被爆証言する。

 被爆証言はいつもこう締めくくる。「人間はいろんな間違いを起こす。でも、核兵器をなくせるという希望は持っています」

(武田肇)