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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
米兵憎んだ自分責めた 広島県呉市 久保崎六郎さん (81)
(2008年7月30日 朝刊)

写真 子どもの頃、よく野球をして遊んだという近くの寺を訪れ、「終戦を告げるラジオを聞いたのもここじゃった」=呉市天応東久保2丁目の安定寺

写真 県立広島工業学校時代の久保崎さん(中央)。被爆2〜3年前だという

 瀬戸内海をのぞむ呉市天応東久保の久保崎六郎さん(81)は、毎朝5時半に目が覚める。布団から起き上がると、左足がしびれている。2年前から脊柱(せきちゅう)管狭窄(きょうさく)症を患い、週6日リハビリに通っている。そのしびれが「黒こげの街」の記憶を呼び起こす。

 がれきの山、うめき声、折り重なるように倒れている死体。だが、それだけではない。凄惨(せいさん)な光景の中には必ず若い米兵の姿がある。「申し訳ないことをした」。思い出すと、胸が締め付けられる。

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 1945年春、県立広島工業学校(現県立広島工業高校)を卒業し、府中町の東洋工業(現マツダ)に入社した。バタンコ(自動三輪車)などのエンジンを設計する内燃機設計課に配属されたが、戦況悪化のなかで小銃や削岩機をつくっていた。

 8月6日もいつも通り出勤した。本館3階の部屋で、図面の整理を始めようとしていると、窓の外が突然光り、ガラスの破片が吹き飛んできた。爆心地から約5・5キロ。けがはなかった。すぐに会社の地下に逃げ込んだ。小一時間ほどして落ち着いたころ、上司の指示で約1キロ離れた同町鹿籠の防空壕(ごう)に移動した。

 午前10時過ぎ、防空壕から出た。会社に戻る道すがら、市内から向洋、海田方面に向かってぽつりぽつりと歩いてくる人たちとすれ違った。目を疑った。服はぼろぼろ、顔は黒こげ。焼けただれた皮膚が垂れ下がっていた。

 「何が起こったんじゃろう」。広島市内の建物疎開に出ていた同僚のことが気になり、昼過ぎ、バタンコに5、6人で乗り込み、向洋から大州町を経て市内に入った。学生時代を過ごしたにぎやかな街はそこにはなかった。建物は消え、方々から炎が立ち上がっていた。そこら中に死体があふれていた。国泰寺公園(現・中区国泰寺町)の池には水を求めてさまよう人が数十人はいた。池の中や縁にはそれ以上の死体があった。

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 あちこちで建物が倒壊し、回り道を繰り返した。県産業奨励館(現・原爆ドーム)の前でも、思うように進めずバタンコから降りた。赤れんが造りの建物が、白っぽくなってボロボロに崩れていた。

 同館沿いの相生通りの歩道をふと見ると、街灯のそばに20歳ほどの青年が裸で立っていた。下着も着けていなかった。少し離れた場所にもう1人いた。近づいてみると、2人とも手を後ろに回され、チェーンでくくられたまま死んでいた。焼けただれた顔のひときわ高い鼻を見て驚いた。「アメリカ人」。抑えきれない衝動に駆られた。

 米国人を見るのは初めてだったが、新聞で彫りの深い顔立ちのトルーマンやマッカーサーの写真を見ていた。学校の軍事教練で、陸軍将校から「鬼畜米英」「米国が悪い」とたたき込まれていた。

 「こいつらのために広島がこんなことになった」。そう思うと、痛めつける道具を探していた。足元に落ちていた500ミリリットルほどの空き瓶を拾った。飲み口を持って2、3メートル離れた位置から2人のうち相生橋側にいた方に思い切り投げつけた。当たったかどうかは覚えていない。熱線を浴びたはずの瓶の熱さも記憶にない。  確証はないが、米兵だったのだろう。裸のままくくられていたのは、日本人による見せしめだったのだろうか。「あのときはただ憎かった」

 被爆米兵を調査した歴史研究家、森重昭さん(71)=広島市西区=の著書「原爆で死んだ米兵秘史」(光人社)によると、8月6日、広島市には12人の米兵の捕虜がいた。いずれも日本本土を空襲中に日本軍の攻撃を受け、墜落し、中国憲兵隊司令部(広島市)の取り調べを受けていた。全員死亡したことは確認されているが、被爆によるものか日本人の虐待によるものかははっきりしていない。

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 戦後、憎しみと怒りで塗り固められた久保崎さんの心は徐々に和らいでいった。食べることもままならないなか、米国からの援助物資を受けた。新聞やラジオで戦争指導者が裁かれた東京裁判の判決を知り、戦時中に何が起こっていたのかを知った。

 結婚し娘を2人授かった。しかし、65年に被爆者手帳を申請するまで、妻にさえも被爆したことは話さなかった。米兵のことも口を閉ざし続けた。「米兵個人を憎むのは思い違いだった」と自らを責めた。恥ずかしかった。

 8月6日の平和記念式典には、呉市の「呉原爆被爆者友の会」の会員として、10年以上参加し続けている。だが、あの場所に近づくことができない。

(村形勘樹 24歳)