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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
長男の死「原爆のせい」 東広島市 高山等さん (77)
(2008年4月16日 朝刊)

写真 被爆手記を英語に翻訳した著書を持つ高山等さん=東広島市八本松南2丁目の市福祉センター「松翠苑」内の原爆資料展示室

写真 腰の筋肉にできたがんを摘出するために広島赤十字・原爆病院に入院中の高山等さん。慰問で折り鶴を贈られ、ベッドの上でポーズをとった(1962年8月)

 被爆証言者として、東広島市の被爆者団体の会長として、高山等さん(77)はこれまで何百何千回と「あの日」からのことを話してきた。だが、被爆から62年を過ぎても、ほとんど話してこなかったことがある。

 「自分を責めました。私が被爆したせいなんじゃないかと情けない気持ちでね」

 原爆の後遺症で不自由な腰をそらして大きく息を吐くと、ふと、胸にしまっていた長男への思いが漏れた。

    □

 山陽中学2年生だった15歳の夏、約50人の同級生とともに皆実町(現・広島市南区)の動員先のトラック修理工場にいた。

 1945年8月6日は、動員が始まって6日目の朝だった。建物脇の広場で「一日も早く技術を身につけ、お国の役に立つように」と工場長が訓示していた時、上空を1機のB29が雲をひきながら飛んでいた。

 2階に上がり、ほてった体を扇子であおぎながら講義を待っていた時だった。突然、「ピカッ」としたまばゆい光が部屋を覆い、耐えきれない熱さに襲われた。

 戸口から逃れようとした瞬間、「ドーン」という音とともに体が持ち上がり、気づくと建物の入り口にあったトラックの下にいた。爆心地からの距離は約2・4キロ。

 視界は暗く、ものが崩れる音だけが聞こえた。思わず「お母さん」と声が出た。同級生のうめき声が、あちこちから聞こえた。

 船越町(広島市安芸区)の自宅を目指して逃げた。全身火ぶくれで、ぼろ切れのように皮膚を垂らした人が恐ろしく、思わず目をそらした。自分もけがをしていないか、不安で何回も頭や体をさすった。腰を強打したほかは目立った傷はなかった。

    □

 戦後、復員してきた兄と土木作業などで家計を支えた。ものは乏しく、海水で煮た野菜が普段のおかずだった。生きることに必死だった。復学後はマラソンや柔道に打ち込み、小学校教員を経て中学校の国語教師になった。

 再び被爆の記憶を突きつけられたのは、しだいに生活が落ち着き始めたころだった。

 被爆から11年。26歳で授かった長男は脳に障害があった。体が弱く、何度も病気になった。歩く姿を見ることもかなわず、2歳を前に亡くなった。「出産が長引いたためだ」と医者は説明した。それでも原爆の影響を疑わずにはいられなかった。

 病魔は自分にも迫っていた。被爆から16年が過ぎた32歳のとき、腰に痛みを感じた。気づいたときには大きなしこりができていた。マッサージも注射も効かず、医者もさじを投げた。広島赤十字・原爆病院で左腰の筋肉を摘出すると、しこりの正体はがんだった。

 元気に生まれた次男が1歳になってまもなかった。周りの被爆者でもがんで命を落とす人がたくさんいた。「再発するかどうかは5年が山」と告げられた時、絶望感にさいなまれた。

    □

 手術から5年余りが過ぎた68年の夏。たまたま参加した集会で、核廃絶を真剣に議論する場面に遭遇した。自分のことだけを考えてきた生き方に責任を感じ、少しずつ被爆証言を始めた。平和記念公園を訪れる外国人に声をかけ、被爆手記を友人に英訳してもらって本を出した。被爆資料の保存を訴えて署名集めを続ける。

 今も、背中には手術の傷跡が残ったままだ。長時間座っていると腰を支える右半身の筋肉がこわばり、痛みで動けなくなる。話の最中でも、ときおり立ち上がっては体をよじり、ひざを屈伸させて体をほぐす。

 「痛みは和らいでも、治ることはないんですよ。でも、痛みがあるから、ずっと原爆のことを忘れないでいる。この痛みがなければ、原爆のことにかかわることもなかったかも知れません」

    □

 被爆体験を語りかける修学旅行生たちには「命の尊さ」を強く感じてもらいたいと思っている。「原爆を絶対に許せない」と力を込める。

 長男の命を奪ったのも、「原爆のせいじゃないか」と何度も思った。だが、被爆証言の時、長男のことを話せないでいる。

 高山さんが「封印」していた長男の話を切り出したのは、5時間近い取材を終えた帰り際だった。高山さんは長男のことを話せない理由を「微妙な思いを伝えられない」とだけ言った。

(山本知弘)