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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
ミカン缶 涙の記憶 広島県南区 浅野温生さん (76)
(2008年11月5日 朝刊)

写真 「このあたりに、裕ちゃんがいた防空壕があったはずなんですが」と振り返る浅野温生さん=広島市南区比治山本町

写真 記者になりたてのころ、広島駅前のマーケットに立つ浅野温生さん(中央)=1958年4月ごろ、浅野さん提供

 あの時から、ミカンの缶詰が大嫌いになった。63年前の8月8日、瀕死(ひんし)の大やけどを負い、防空壕(ごう)に横たわっていた幼なじみの裕(ひろし)ちゃんが「ヨッチャンも食べろ」と勧めてくれた。当時は貴重品だ。だが顔の下半分がむごたらしく腫れ上がった彼の前で、無傷の自分が食べる勇気はなかった。旧制中学2年だったヨッチャンは新聞記者になり、被爆者の思いを追いかけ続けた。今、思う。「裕ちゃんの命を奪ったあの日の惨状を見たことが、自分の生き方を縛ってきたのかも」

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 浅野温生(よしお)さん(76)=広島市南区=がキノコ雲を見たのは、小用港(現・江田島市)に停泊していた船の上だった。1945年8月6日朝、広島から母の郷里、上蒲刈島(現・呉市)へ向かっていた。同日、同級生たちは畑に作業へ行く予定。「授業じゃないなら」と母に言われ、さぼって出征中の叔父に差し入れる食糧を調達しにいくつもりだった。

 島に着くと、「広島が全滅した」と聞かされた。翌日、村長だった祖父らと一緒に広島へ引き返した。爆心地から2・3キロ離れた自宅は爆風で大破していたが、家族は奇跡的に全員無事だった。

 8月8日、比治山(現・広島市南区)下の壕に浜田裕君がいると知らせてくれた人がいた。家が2軒隣、年が1歳違いで親しかった。

 半地下の狭い壕には4、5人が横たわっていた。入り口近くの中学生は顔の下半分が焼けただれ、うみだらけの首に巻かれた包帯を「外して」と訴えていた。「裕ちゃん!」。呼びかけても返事はなく、いったん家に戻った。

 数時間後、裕君の母親と一緒に再び壕へ出向いた。「裕!」。入ったとたん、母親はさっきの中学生を抱きしめた。「熱かったろう」。母親は肩にかけた袋からミカンの缶詰を出し、焼けただれた裕君の口に懸命に流し込んだ。

 裕君は約3週間後に息を引き取った。いまわの言葉は「おかあちゃん」。3回繰り返したという。缶詰ミカンのオレンジ色を見るたびに、浅野さんはたまらなくなる。

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 大学を卒業した浅野さんは54年、地元紙・中国新聞社に入社した。

 新聞業界には「硬派」「軟派」という隠語がある。政治、経済を担当する硬派に対し、社会・世相を追うのが軟派だ。浅野さんは警察担当を皮切りに、ひたすら軟派記者の道を歩んだ。

 65年、大型連載の中心筆者を任された。原爆投下から20年。広島の被爆者は何を思っているのか。20人余りの「今」を描いた。

 一人一人が鮮烈だった。原爆で両目の視力を失った23歳の女性は「金魚の赤、母のほくろの黒しか、色の記憶がありません」。上半身にケロイドを負った32歳の女性は「生活苦から売春婦になろうと思ったこともあったが、『その体じゃ買い手がつかない』と笑われた」と明かした。

 原爆さえなければ、この人たちは普通の生活を送っていただろうに……。憤りがなかなか文章に書き表せない。深夜まで何度も書き直した。

 連載が始まってまもなく、殴り書きされたはがきが会社に届いた。「連載をすぐやめてください」。被爆者の娘を持つという母親からで、名前も住所もなかった。被爆者の癒えぬ心の古傷をさわった罪悪感にさいなまれた。

 「……原爆のもたらした人間的悲惨は、全人類の人間的悲惨にまで昇華されるべきだと考える。そのためにこそ、われわれは被爆者の悲惨を追い、非被爆者との連帯感を求めようと模索した……」

 浅野さんは最終回でこう書いた。はがきの主へのせめてもの返事のつもりだった。

 70年、原稿をチェックする立場のデスクになった後も、一線の記者が出してきた原爆連載の原稿を片っ端から書き直させた。若手の不満は募った。「ズタズタにするんやったら、初めから自分で書きんさいや」。そう絡んできた記者もいた。

 原爆投下直後、浅野さんは広島市内を歩き回った。防火水槽で立ったまま焼死した男女の、水につかった足だけが白かった。遺体収容所に横たえられていた無傷の同世代の少年の口から一筋の赤い血が垂れ、「死んでる!」と衝撃を受けた。

 ほめて自信を持たせたほうが若手は伸びる。頭ではわかっていた。ただ、壮絶な死を無数に見てきた自分としては、どうしても簡単にOKとは言えなかった。

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 運動部長、編集局次長などを経て98年に退職した浅野さんは今、自転車で比治山近くをよく散策する。

 周辺はマンションが立ち並び、川べりの被爆したシダレヤナギが面影を残すだけだ。裕ちゃんがいた防空壕は、場所さえ定かでなくなった。

 被爆者の平均年齢は75歳を超えた。一線で働く記者はたぶん、もうほとんどいない。

 広島では今も、多くの記者が原爆・平和の取材に奔走する。「被爆者はいずれいなくなる。それでも、この平和な街を破壊し、普通の生活を奪った原爆の悲惨さについて、想像力をかき立てる報道を続けてほしい」

(加戸靖史)